沈黙は賛成ではない
——同調圧力に飲み込まれない思考の作法

最近、ある言葉をよく耳にします。
「沈黙しているということは、賛成しているのと同じだ」
この言葉は、正義の側から発せられることが多いです。
差別に対して沈黙するな。戦争に沈黙するな。社会問題に沈黙するな。
もちろん、この主張には一理あります。
沈黙が不正を温存させることは歴史上いくらでもあります。
しかし私は、この言葉が持つもう一つの危うさについても考えたいと思っています。
それは、
沈黙を許さない社会は、思考を許さない社会になりやすい
ということです。
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■ SNS社会と「感情の同期」という強制
現代の情報環境には、ひとつの特有のリズムがあります。
何かが起きる。すぐに画像が広まる。言葉が広まる。怒りが広まる。そして——その怒りに即座に同調しないことが、「冷たさ」の証拠として読まれるようになります。
SNSは感情を可視化する装置です。「いいね」「リポスト」「コメント」——そのすべてが、「私はこう感じた」という感情の表明になります。そして逆に言えば、何も表明しないことが「感じなかった」ことの証拠として疑われます。
ここに、かつてなかった構造が生まれています。
以前、感情は基本的にプライベートなものでした。怒りを感じていても、公に示さなければ他者には見えなかった。しかし今、感情は公的なデータになりました。「いつ、誰が、何に、どう反応したか」が記録され、比較され、評価されます。
感情の同期が、社会的な生存条件になりつつあります。
正しいタイミングで正しい感情を示すこと。正しい対象に怒り、正しい言葉で表明すること。これができない者は、「共感力のない人間」として周縁化されます。
だが考えてみてください。これは何を意味するのでしょうか。
感情の内側には、必ず思考が必要です。「この問題は複雑で、私にはまだ十分な情報がない」「この怒りには正当な根拠があるのか、確認したい」——そう感じて沈黙することは、不誠実ではありません。それはむしろ、誠実さの一形態です。
しかし、感情の同期が要求される環境では、この種の沈黙は「非協力」として罰せられます。思考の時間そのものが、失われていくのです。
—
■ 共感の暴走——Paul Bloomが警告したこと
共感についての、ある重要な批判があります。
認知科学者ポール・ブルームは著書『反共感論』の中で、共感が必ずしも道徳の土台にならないと主張しました。むしろ、共感はしばしば道徳判断を歪める、と。
ブルームの核心的な指摘はこうです。
共感は本質的に「スポットライト」である。一人の具体的な人間に強く照射され、抽象的な多数の人々を照らさない。だから私たちは、顔の見えるひとりの子どもの苦しみに深く共感し、統計上の何万人の死に感情を動かさないのです。
この非対称性が、集団的な意思決定を歪めます。
さらにブルームは、共感が「内集団バイアス」を強化することを指摘しています。共感は、自分に似た者、自分が知っている者、自分と同じ側にいる者に向かいやすい。つまり共感は、人を平等に扱う能力を育てるどころか、「身内」への偏愛と「他者」への冷淡さを同時に深めることがあります。
共感が集団感情として組織されるとき、その危険はさらに増します。
「私たちはこれほど傷ついている」——この感情の共有が、集団の団結を生みます。しかしその同じ感情が、「あちら側」への過剰な攻撃性の燃料にもなります。共感が暴走するとき、それはしばしば「感情の正義」という名の残酷さを生みます。
この点で、沈黙の問題と共感の問題は深く連動しています。
もし共感への参加を強制されるなら、それはブルームが批判した「スポットライト共感」を強制されることです。複雑な問題を、一枚の感情的な画像に還元すること。その画像に号泣することを求められること。号泣しなかった者が疑われること。
これは道徳的な共同体を作りません。感情的な同調集団を作るだけです。
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■ 反戦の言葉が、戦争の構造を反復するとき
ここで、より鋭い問いに向き合わなければなりません。
「沈黙は賛成だ」という言葉は、しばしば反戦運動の文脈で使われます。しかしここに、ひとつの逆説があります。
戦争の構造とは何でしょうか。それは、複雑さを「敵か味方か」に還元することです。グレーゾーンを許さず、中立を裏切りとみなし、「どちらの側に立つか」を即座に要求します。
そしてその要求に応じない沈黙を、敵への加担として断罪します。
もし反戦運動が、同じ論理を使っているとしたら——
「戦争に沈黙するな。沈黙は賛成だ。どちらの側に立つか今すぐ表明しろ」
この言葉の構造は、実は戦争そのものが作り出す二項対立の構造と共鳴していないでしょうか。
もちろん、これは反戦という「目的」を否定することではありません。戦争は止めなければなりません。しかしその「手段」として、思考の余地を奪う感情の同期を強制することは、戦争が作り出す認知の歪みと同型である可能性があります。
本当の意味での平和への思考は、単純化を拒みます。加害と被害の複雑な連鎖を見ようとします。「こちら側の正義」だけを信じることに、慎重でいようとします。
その慎重さが沈黙として現れることがあります。そしてその沈黙が「賛成」と読まれるとき、思考の可能性は閉じられていきます。
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■ 小津安二郎の「間」——沈黙という倫理の美学
映画の話をさせてください。
小津安二郎の映画を観た方は、その独特の「間」を覚えていらっしゃるでしょう。
セリフとセリフのあいだに、長い沈黙があります。感情を直接表明するのではなく、静かな所作の中に内面が滲みます。登場人物たちは、あまり叫びません。あまり泣きません。しかしその静けさの中に、言葉にならない深い感情が息づいています。
小津映画の沈黙は、何かを隠しているのではありません。それは、感情を言語化することへの、ある種の敬意です。
感情はそれほど単純ではありません。簡単に言葉にできるものではありません。だから人物たちは黙り、所作で語り、視線で伝えます。観る者はその沈黙の中に、「この人は今、何を思っているのだろう」と想像を巡らせます。
これは、共感の最も成熟した形の一つではないでしょうか。
感情の直接的な同期を求めるのではなく、他者の沈黙の中に複雑な内面を想像しようとすること。「あなたもこう感じるべきだ」ではなく、「あなたは今、何を感じているのだろう」という問いを持ち続けること。
小津が描く人物たちは、互いに「どちらの側か」を問いません。むしろ、立場の違いを知りながら、それでも食卓を囲みます。老いと死、別れと諦め——その前で人は沈黙します。その沈黙を、映画はそのまま映します。
言わなかったことの中にこそ、言いたかったことがある。
小津の映画的文法は、そう教えています。
—
■ 文明としての沈黙
もう少し、大きな問いを立てたいと思います。
沈黙を許容することは、単に個人の内面の問題ではありません。それは、文明の成熟度の問題ではないかと思っています。
未成熟な集団は、沈黙を恐れます。沈黙は不確定であり、不確定は不安を生むからです。「あなたは仲間か、敵か」——この問いに即答させることで、集団は安心を得ます。
しかし成熟した文明は、沈黙を含むことができます。不確定を許容し、判断の保留を尊重し、「まだ考え中」という状態を承認することができます。
歴史を振り返れば、沈黙を許さなかった社会は、最終的に何を生んだでしょうか。
全員が旗を掲げることを求められた社会。感情の表明を強制された社会。沈黙が「非国民」の証拠として扱われた社会。
それらは決まって、思考の死を招きました。そして思考が死んだあとに来るものを、私たちは歴史として知っています。
沈黙の余地を守ることは、思考の余地を守ることです。
そして思考の余地を守ることは、ある種の文明の条件そのものではないでしょうか。
—
■ 共感の次元を、一段上げる
では、私たちには何ができるのでしょうか。
ブルームの批判を踏まえた上で、しかし共感を捨てるのではなく、共感の質を変えることだと思います。
「共感」と一口に言っても、そこには段階があります。
Sympathy(同情)は、他者の苦しみを遠くから認識することです。「かわいそうだ」と感じる。しかしそれは、あくまで自分の安全な場所からの観察です。他者との距離は保たれたままです。
Compassion(憐れみ)は、一歩近づきます。苦しみを共に感じようとする意志があります。しかしそれでも、「私が苦しんでいる人を助ける」という構造は残ります。ここには、助ける側と助けられる側の非対称性があります。
Empathy(感情移入)は、さらに深く他者の内側へと入ろうとします。「あなたの立場に立てば、私もそう感じるだろう」という想像的な橋渡しです。しかしブルームが指摘したように、Empathyもなお「スポットライト」の限界を持ちます。感情的に近い者にしか向かいにくく、集団化すると暴走します。
そしてその先に、私がIdentification——自己同一化的共感と呼びたいものがあります。
Identificationとは、感情の一致ではなく、他者の立場への想像的な参入です。「あなたのように感じること」ではなく、「あなたである、ということはどういうことか」を問うこと。感情の表面ではなく、その人が世界をどう経験しているかという深みへと降りていこうとする運動です。
Identificationにおいて、他者はもはや「理解の対象」ではありません。他者は、もう一人の自己です。
—
ここで、マルティン・ブーバーの思想を借りたいと思います。
ブーバーは著書『我と汝』の中で、人間の関係様式を根本から二つに分けました。
「我―それ(I-It)」の関係とは、他者を「対象」として扱う関係です。他者は、観察され、分類され、利用される「もの」になります。同情も、憐れみも、感情移入でさえも、ある意味でこの構造に留まることがあります。「私」は主体であり、「あなた」は客体です。距離は、消えません。
「我―汝(I-Thou)」の関係とは、まったく異なります。そこでは、他者は対象ではなく、自分と同じ深さを持つ「汝」として現れます。この関係の中に入るとき、「私」は変容します。他者の存在が、私の存在に触れます。そこには、一方的な理解も、一方的な助けも、ありません。ただ、二つの存在の、真の出会いがあります。
ブーバーが描いた「我―汝」の関係——これこそが、Identificationの哲学的な核心だと思っています。
Identificationは、感情の橋渡しを超えます。それは、他者を「もう一人の自己」として迎え入れること。「あなたの沈黙も、あなたの怒りも、あなたの迷いも、それはあなたという存在の一部だ」と承認すること。
この視点に立ったとき、沈黙の意味が根本から変わります。
「我―それ」の関係においては、沈黙は情報の欠如です。反応がない、つまりデータがない、つまり「賛成」か「無関心」に分類される——そういう処理になります。
しかし「我―汝」の関係においては、沈黙は存在の表れです。その人が今、何かと向き合っている。その静けさの中に、その人がいる。沈黙は、空白ではなく、充填されているものです。
ここで重要なのは、Identificationは感情を越える、ということです。
感情の同期を求める共感は、「同じ怒り」「同じ悲しみ」という感情レベルの一致を前提とします。しかしIdentificationは、その人の感情がどこから来るのかを理解しようとします。その人の歴史、その人の沈黙、その人の言葉になっていない経験——そのすべてを含んだ「他者の全体」へと自己を開こうとする態度です。
だからこそ、Identification的な共感は、沈黙している人を排除しません。
なぜならそれは、「沈黙には、複雑な内側がある」という可能性を最初から含んでいるからです。沈黙もまた、その人という「汝」の、かけがえのない表れとして受け取ろうとするからです。
そして、この高い次元の共感を実践するためには、自分自身も沈黙の時間を持つことが必要です。即座に感情を表明する前に、立ち止まること。「私はなぜこう感じているのか」「このシンプルな怒りで、本当に十分なのか」と問うこと。
その沈黙から生まれた言葉だけが、本当の意味で他者に届く言葉になるのではないでしょうか。
—
■ 沈黙という作法
だから私は、こう考えています。
沈黙は必ずしも賛成ではありません。
沈黙は、ときに思考を急がないという倫理です。
すぐに旗を掲げない。
すぐに敵味方を決めない。
すぐに正義を宣言しない。
まず観察する。考える。そして言葉を選ぶ。
この態度は、SNSの時代には弱さに見えるかもしれません。感情の同期を拒む者は、共感力がないと疑われるかもしれません。しかし実際には、それはむしろ同調圧力に飲み込まれないための、知的かつ倫理的な作法なのではないでしょうか。
共感とは、本来「同じ感情を持つこと」ではありません。それは、他者の存在を理解しようとする知的運動です。
もし共感が「同じことを感じろ」という命令になったとき、それはすでに共感ではありません。それは集団感情の強制であり、やがて思考の不在を生みます。
共感が思考を止めるとき、社会は硬直します。
共感が思考を広げるとき、社会は成熟します。
その分岐点にあるのは、もしかすると——
沈黙を、余白として許せるかどうか
なのかもしれません。
—
言わなかったことの中に、言いたかったことがあります。その可能性を、私たちは互いに守り合えるでしょうか。
次回:「共感はなぜ難しいか——感情移入と同化の違い」
(テーマ)『同調圧力 vs 共感——その違いはどこにあるか』
朗読劇公演最終告知!公演せまる!
すでに色々なところで告知してまいりましたが、もうすぐ久しぶりの芝居公演があります!
Reading Play「朗読劇」です。僕はBチームの演出をしております!
チケット申し込みは上野本人までよろしくお願いいたします。ぜひご覧ください!
上野火山:メールアドレス
【公演詳細】
アクターズワークスユニットVoL2 リーディング公演 ~ワークインプログレスで作品を育てる試み~
リーディング公演「アフタープレイ」・
◆チケット料金:
「通常(1公演)…2500円」
「2公演通しチケット…4500円」
「3公演通しチケット…6500円」
◆会場:高円寺K’sスタジオ本館
〒166‐0011 東京都杉並区梅里1-22-22パラシオン高円寺B1-100号
アクセス https://koenjiksstudio.wixsite.com/mysite/blank
以下、詳細目次
〇「アフタープレイ」
〇お申込み方法
〇ワークインプログレスについて
〇感染対策について
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「アフタープレイ」
作/ブライアン・フリール 訳/家田淳
~あらすじ~
1920年前半のロシア、いえ、ソ連。
モスクワのさびれたカフェで、何の縁もなかったアンドレイとソーニャが、
何の縁だか出会って2晩もおしゃべりに花が咲く。
アンドレイもソーニャも、田舎の貴族だった。
二人とももう40~50代。人生の終盤に差し掛かっている。
その二人が、なぜ遠く離れた田舎から首都モスクワまでやって来たのか?
帝政ロシアから、戦争、革命を終えたソ連で、彼ら互いの人生を送り、
ここで二人は出会った!
彼らの残りの人生は運命の歯車が回り出す・・・かぁ????
人口比率がきれいに逆ピラミッドになっている日本。
100歳まで生きなくてはならない日本。
シニアの人生、老後について、われとわが身にしみる一作。
いやいや、ぜひ若者にも見て欲しい一作。
■演出
家田淳 上野火山
■出演
小川友子 丹聡 室園丈裕 柚木佑美
(あいうえお順) 各プロフィールは名前をクリックしてご覧ください。
※アフタープレイは、チェーホフ作「三人姉妹」の登場人物・アンドレイと、「ワーニャ伯父さん」の登場人物・ソーニャの20年後の出会いの物語。
演劇にご興味のある方は、この二冊もお読みになってご来場いただければさらにお楽しみいただけると思います。
◆日程: 2021年 11月11日~13日 全8回
11/ 11 (木) 12:00 若手 15:00 A 19:00 B
12(金) 15:00 B 19:00 A
13(土) 12:00 A 15:00 B 19:00 若手
チームA 演出:家田淳 出演:丹聡 小川友子
チームB 演出:上野火山 出演:室園丈裕 柚木佑美
※会場は各20分前です。入場をお待ちいただくロビーなどがございません。お時間を計ってご来場ください。
※上演時間 約1時間20分。 プレトーク・アフタートーク会(自由参加)含め 1時間40分を予定しております。
※チケット料金のお支払いについて
今回、小規模のスタジオ公演であるため、チケット予約サイトを使うなどしてのあらかじめの入金をお願いしておりません。全て当日、現金にてのお支払いをお願い致します。
また、当日、体調不良の方は、早めに上記メルアドにご連絡いただけますようお願い申し上げます。
新型コロナ感染症が完全に収束してはいないため、キャンセル料などは考えておりません。
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ワークインプログレスって何?
~ワークインプログレスで作品を育てる試み~
今回は、ワークインプログレスという公演です。
ワークインプログレスとは、「制作作業中」という意味で、お客様のご意見をたくさんいただいて、作品を良いものにしていく・・・という趣旨の企画です。
その方法が、アフタートーク交流会です。
簡単に言うと、終演後どこかの飲み屋で一杯やりながら「いや~、よかったよ・・・」とかの、アレです。アレをみんなでやりたい!ということなのです。
知り合いの出演者も後で合流したりして・・・。そしたら、「いや~、よかったよ」の後、ビールが2~3杯進むと、「でもサ・・・」と本音が出てきたり・・・。
ソレです!ソレ!
ソレをしっかりお伝えいただきたい!
そんな気持ちでこの時間を企画しました。
その考えは、作品をお客様と一緒に育てていきたい・・・といい思いからです。
役者や演出家は作品を作る、お客様はそれを見る。
その両者を繋ぐものは?
たまたま知り合いがいた飲み屋、昔ながらのアンケート、SNSでのコメント・・・
どうしても一方通行だったり、ゆっくり話のは公演が終わった後だったり・・・
ワークインプログレスの発祥は欧米です。欧米ではまず、小規模のスタジオ公演などを行い、その後、お客様と交流会を行って、そこで作品について忌憚のない意見交換をする。どうだったか、どこが面白かったか、面白くなかったか、を話し合い、演出、俳優がそれを受け止めて、また稽古し、次回の小規模公演や地方公演にのぞみ、だんだんとオンシアターに向かっていく・・・ということを行っているそうです。
「作品」をお客様と一緒に育てていく・・・そんな環境があるそうです。
日本では多くの公演が、お客様の意見は一方通行で、さらに多くの芝居は一回やっておしまい。劇団というものが多くあるけれど、どっかというと自分たちが「やりたい」ものをやっていることで終わりになっていないか・・・
せっかく小規模のスタジオ公演です。
ぜひ、お客様にご意見をいただき、お客様にも作品作りにご参加いただきたいと思い、この試みを企画いたしました。
実はアクターズワークスの以前の公演でもアフター飲み会をやっておりました。
コロナ禍でなければ、以前のようにテーブルを出し、皆さんとビールやおつまみくらいはご一緒しながら、これをやりたいのですが・・・。
「いや、自分が意見とか・・・言えないよ」「恥ずかしい」と思われているかもしれませんが、そこを一歩踏み出して!ぜひ、私たちに感じたことを届けてください。
また、高尚なことではなくても、裏話とか・・・聞きたいことがあれば、どうぞ度遠慮なく!
少しでも「芝居って面白い!!!」「また見たい!!!」と思っていただきたい!
と思っています。
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~感染対策~
〇公演のたびに座席など消毒を徹底しております。
〇高円寺K’sスタジオ本館は地下ですが、24時間換気されております。この換気の勢いは大変強く、約10分で室温が明らかに変化する強度です。状況によって入り口を10㎝ほどあけたままで開演することもあります。
〇二酸化炭素測定器を用意して常に管理しております。
〇従来の50席のキャパを約半分に減らして開催いたします。
〇換気口は天井にあります。サーキュレーターを適切に使用いたします。
※換気のため暖房が効きにくくなっております。暖かい服装でお越しください。
※スタジオは土足厳禁となっております。スリッパをこちらでご用意しておりますが、時節柄お気になさる方はご持参くださるようお願いいたします。
お客様へのお願い
手の消毒、マスクの着用での観劇をお願いいたします。
体調のすぐれないお客さま、37.5度以上のお客さまはご観劇をご遠慮ください。
あらかじめ、お客様の お名前 電話番号 メールアドレスをご提出をおねがいしております。
そうでないお客様は、受付にてご記入をお願いいたします。
観劇以降2週間以内に、お客様に感染が確認された場合、すみやかにアクターズワークスにご連絡くださるようお願いいたします。そのような場合、同時刻に観劇されていたお客様にはすみやかにご連絡させていただきます。
いただいた個人情報は上記の目的以外に利用することはございません。
僭越ではございますが、上記の感染対策にご協力いただけない場合、入場をお断りすることがございます。ご協力よろしくお願いいたします。
『丁寧な日常』
『丁寧な日常』
V-net教育相談事務所で現在教鞭を執る岸朱夏先生の撮られた短編映画「ななめの食卓」について書きました。
もしよかったら、お読みください。
先日、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2020に出品された短編映画を見る機会を得た。
映画のタイトルは「ななめの食卓」
ほとんどの場面が室内で行われる、まるで舞台劇を観るような濃密な空気感がそこにあった。わずか27分という短い物語の中で、静かに繰り返される対話はまさに日常のありふれた言葉だが、だからこそ、そこには誰もがどこかで見たり感じたりしたことがある誠実な肌触りがあった。
アメリカ映画にあるような暴力的な対立を煽るところもなければ、韓国映画のような激しい情緒もない、むしろそこには日本家屋の持つ静謐さそのものが発するような「柔らかな視線」があった。
2000年代以降、小劇場等でも「日常」はテーマになり、なにも起こらない日常を描く芝居が多く上演された経緯がある。勿論、それらはとても興味深い日本の様々な種類のリアルを描いてはいたが、優しさは少なかった。日常は退屈でつまらなく、だらだらと間延びし憂鬱でカッタルイもの。僕らの日常は無意味で充満し、希望はおろか深い絶望すら見失っている。そんなリアリズム演劇がかなり長いこと下北沢周辺から日本のドラマの色を変えてきた。
実際、この世界に対する胡散臭さや偽物臭に敏感な人々は、そうしたリアリズム演劇に日常の真実を見出したようだった。そして、かくいう僕もその一人だった。
しかしながら、そうしたドラマに大きく欠けていたものがあった。
それは、優しさである。日常で何も起こらないはずがない。優しさはなかなか見えにくいのである。
優しさなんてものは、結果であって、求めるものでもないというのは重々承知の上ではあるが、やはり「優しさ」は大切なのだ。優しさを忘れた批判も批評も、それはやがて厳しさを理由に暴力に堕すだろう。優しさは甘やかすことではない。優しさとは、相手をそっと見守るその視線そのもののことかもしれない。
親子、兄弟姉妹、友人同士、師弟、そうした関係性の中で、優しさは確かに育まれることは多いだろう。
この「ななめの食卓」という映画の意外性は、まさにその点にある。
妻を亡くした男とその亡き妻の母との奇妙な二人暮らしを描くこの作品では、優しさこそ生活を成立させる大きな原因となっていた。
そもそも二人は赤の他人だが、亡き妻と娘という接点のみで、生活が続いていくのだ。
夫婦という関係性が他人同士の共同生活から始まるわけだが、夫婦でもないのに、それでも継続する接点を失った家族。
その二人を結びつけるのも優しい互いを見つめる視線なのだと物語の終わりに気付かされる。亡くなった妻であり娘である女性が作り置きしていたカレーを残された義母と娘婿が食卓で初めて向き合って食べるとき、観るものは二人の関係の優しさに、魂が揺り動かされるのである。
葛藤や軋轢というものは、怒鳴り合い、憤り合うことばかりでないのだということがよく分かる。置かれた状況そのものが葛藤であり軋轢なのだから、その中で人はなんとかして優しさを見出そうとするのだろう。
かつてより、日本のドラマ作品にはこうした静かなる葛藤を描くものが多くあった。例えば昭和12年の山中貞雄監督の「人情紙風船」、小津安二郎監督の「東京物語」、黒澤明監督の「生きる」、木下恵介監督の作品群等など。
「ななめの食卓」という作品は、早稲田大学の学生たちによって創られた新しい作品にも関わらず、長い間忘れられていた過去の巨匠たちの作品の系譜に並ぶものだということがよく分かった。そして、コロナ禍で喘ぐこの時代に、人々の揚げ足を取るようなクレームや匿名や名声を利用してSNSで人々軽々しく追い込んでいく空気の中で、他者を思いやる「優しさ」をテーマにしたことは本当に貴重な作品なのだと思う。
ただただ目新しいものを創り出すことが最善とされる時代に、「今失われている大切なもの」を描くこの作品の存在は、僕にも静かに明るい未来を予感させてくれる大切な想い出になりました。監督、スタッフ、そしてキャストの皆さんに感謝!!!
ありがとう!!!
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映画「ななめの食卓」詳細
監督:岸朱夏
出演:高間智子、清田智彦、谷川清美、玉置祐也、山下真琴
< 解説 >
突然直面することになった「遺された家族の生活」を、戸惑いながらも次第に受け入れていく義理の親子を題材にしたのは現役大学生、岸朱夏。微妙な二人の心情を、毎日座る食卓の位置でうまく表現している。本作は早稲田大学の基幹理工学部による映像制作実習で制作されている。今年で5年目となる本プログラムは、映像学科や専門学校と異なり、映像制作の技術を学ぶことよりも、制作過程においてお互いの考え方や姿勢を学ぶことを目的としている。映像制作経験もほぼないスタッフの中で作り上げられたという事実に驚くものの、授業の担当教員に是枝裕和監督や篠崎誠監督が名前を連ねており、日本を代表する錚々たる監督陣の指導によるものだとわかると、納得もいく。本映画祭での上映がワールド・プレミアとなる。
< 物語 >
妻を亡くした男と、義母。家族でもあり、他人でもある微妙な距離感。
向かい合って座れる日は来るのだろうか?
一緒に暮らす会社員の達紀と義母の信子は、いつも決まってななめ向かいに食卓につき、会話にも態度にもぎこちなさを隠せずにいる。二人を繋いでいたはるは、交通事故で急逝していた。信子は娘を、達紀は妻を失った悲しみを抱え、互いを気遣いながらも自分たちの今後を決めあぐねていたのだが…。『ななめの食卓』
映画『メランコリック』について ー匂いのする風景ー

映画『メランコリック』について
ー匂いのする風景ー
俳優で友人の矢田政伸氏からお知らせを受けて見せていただいたこの映画、今巷でも大騒ぎになるほど話題になっておりますね。
矢田さんは映画の中で、強面のヤクザを演じておりますが、ユーモラスな中に凄みがあって良いキャラであります。
この映画、制作過程がとても大変だったようで、クラウドファンディングやなんやかやで、それこそ奇跡的な上映だったようです。しかし、それも内容の良さからくるものでしょう。東京国際映画祭で監督賞を受賞だとか、そんな受賞歴を遥かに超えて、近年稀に見る低予算でこれだけ面白い作品が撮れたという事実こそ一つの奇跡であり快挙でしょう。
30歳でニートの主人公が経験する奇妙な体験が、彼を少しだけ成長させるという正統的ビルディングスロマンにもかかわらず、観ている最中はそんなことを微塵も予測させないストーリー展開の妙がそこにありました。
銭湯で殺人を犯し、死体を処理するというそのことだけでも、決してハッピーエンドは望めない状況下で、最終的にあれほど「ほのぼの」する不思議。この映画しみじみとほのぼのするんですね。なんだろう。生きててよかった感が溢れているんだな。
どんでん返しも確かにありますが、それ以上にあれだけの多幸感を醸し出す演出も俳優たちの演技も素晴らしかった。
映画を観ながら、僕は不思議な既視感に囚われていました。
それは、かつて七十年代や八十年代初頭に池袋や板橋や高田馬場や飯田橋辺りの名画座で散々見たあの日活ニューアクションの匂いがこの映画にはあったんです。それは映像だとかストーリーテリングだとか背景の造形であるとか、そういった視覚的なものだけでなく、匂いそのものが日活ニューアクションを彷彿とさせるんですね。原田芳雄さんや松田優作さんや佐藤蛾次郎さんやあの頃の画面から漂ったあの匂いが、この映画にはあった。
観終わった頃、こんなところであの頃を匂いをもう一度体験できるんて思いもよらなかったので、それこそが一番大きな「どんでん返し」でした。
たぶんその匂いとは、ハリウッド映画に単純に追随するわけでもなく、お洒落な雰囲気を求めるわけでもなく、美学的な映像美を探求するでもなく、ひたすら生活を描くその視線と制作態度から生まれるものでしょう。
それは何度も出てくる主人公の家の夕食の風景や銭湯の湯気、ボイラー室、銭湯の番台のやり取り、コーヒー牛乳、、、、、嗚呼これら全てに匂いがあるんだな。
デオドラントでステキ感満載の映画がはびこる昨今、こんな唐揚げの食卓の匂いのする映画は本当に貴重なんです。
この映画は物語の荒唐無稽さを、映画が醸し出す「生活の匂い」のおかげで信じられるものにしている。リアルな荒唐無稽がそこにはある。
映画は二次元で画面の中の世界に過ぎないが、確実に匂いを放っているんだと思います。それをすくい取ることのできた貴重な映画がこれです。
まだ上映中です。
ぜひ、この幸せの匂いのする風景を味わってみてください。きっと幸せになれますよ。保証します。
映画『新聞記者』を観る

映画『新聞記者』を観る
先日、やっと観ることができたこの映画、近年稀な傑作でした。
今週で打ち切られるとか。満員御礼の劇場も出ているようですが、人が入らないということで打ち切りなのでしょうか?いずれにせよ、近頃ではめったに観ることのできない力強い作品でした。
あちこちですでに語られているように、ストーリーは現政権下における様々な政治スキャンダルとその本質に迫っています。勿論、相変わらず、本質に迫ろうとすると途端にネット上には「トンデモ」な荒唐無稽な憶測の連続で呆れるなどという批判が必ず登場しますが、なかなかどうして、現実に起こった事件や政治的案件に対する素晴らしく説得力のある解釈だと思います。
確かにフィクション(作り事)ですから、真実ではないと言われればその通りです。ですが、現在進行形の出来事を安易に解決させず迫るその制作態度は称賛に値すると思います。米映画の「ペンタゴン・ペーパーズ」等と比較される向きもありますが、それらはすでに一定の結果が出ている出来事の顛末を扱っているのだから、この作品と比べることはそもそもできません。この作品の価値は、誰もがうすうす疑っていても、あえて口に出せずにいる現在進行形の「王様の耳はロバの耳」を扱っているところにあるのだから。
しかしながら、ジャーナリストやメディアは事件や出来事を取材して、明確にすべきであって、映画などというフィクション(作り事)のエンターテインメントの媒体に安易に寄るのは、自殺行為だなどと評する人も出てくる始末。
たとえば、映画のような媒体によって現実の出来事を想像させ、解釈させ、判断させることを、現在の「民主主義」すなわちチョムスキー言うところの「観客民主主義」はプロパガンダとしては大いに利用はするが、批判や批評の材料としては潰す傾向がある。これは、この国でも勿論、多くの国で共通しています。
だからこそ、不明確で分かりにくい現在の出来事だからこそ思考の材料を映画は提供すべきなのだと思う。昨年の「万引き家族」もそうした作品のひとつでした。娯楽で結構。娯楽作品を観て、いや娯楽作品だからこそ、その映画の中で語られている事柄の本質の重さと可能性を感じることができればいい。もしもできないとしたら、よほど呑気に今を過ごしているのだろうな、と僕は思う。
なしくずし的に悪化しているこの国の政治と経済状況は、本当の問題に触れることができないように進行している。
目を覚ますには、こんな映画をあえて観てみる必要があるのではないかな。
もうすぐ終わってしまうのかもしれないが、ぜひ多くの人に観てもらいたい。そして、ぜひDVD化やBlu-Ray化を希望します。
主役の女性記者を演じるシム・ウンギョンさん。彼女の演技は「怪しい彼女」「サニー」はもとより「ソウル・ステーション・パンデミック」の声優としての仕事、そして「新感染」のゾンビ役と、これまで数多の作品を見せていただいていますが、今回はそれらの作品からは想像もできないほどの静かで激しい内省的な演技に、この俳優以外にはこの役はできなかっただろうと改めて思いしらされました。
そして、もうひとりの主役である内閣情報調査室の若手を演じる松坂桃李さんも、いわゆるイケメン枠を超えた深く葛藤を抱えた演技を見せてくれました。参加された俳優一人一人の意識的な作品への思いが、この作品を特別のモノにしていると感じました。
若い監督と老練なプロデューサー。十分に錬られた脚本と演出、そして静かに燃える演技がこの映画を稀に見る傑作に仕立て上げています。
この作品をこの時期に観ることができて僕は嬉しかった。
ありがとう!!
P.S.
映画の中でも流れていた貴重な対談の動画もアップしておきます。御覧ください。
パヨクだとかネトウヨだとか、そんなことはどうでもいい。問題の本質を見極めたいと思います。
比較演劇学とは何か

『比較演劇学とは何か』
法政大学の講義も、まだ始まったばかりのような気がしていましたが、春学期ももうすぐ終わりなんですね。早い。時がたつのは本当に早い。
そこで、よく質問される「比較演劇学とは何ですか?」に対して当ブログでも一部ご紹介したいと思います。もちろん年間を通じて、深く考察を重ねていくものなので、簡単に要約することで誤解を生じさせる可能性は無きにしもあらずですが、概要を述べることには多少の意味はあると思います。
イスラエルの神学者マルチン・ブーバーの著書に「我と汝」というものがあります。この本の中で、彼はこの世界がいつの間にか「我とソレ」という非人間的な無理解が前提となった世界になってしまっていることに気が付きます。すなわち、世界が「我々」ではなく「私と関係のないものの関係」になってしまっている。
ここで鍵となるのが「共感」です。

Sympathy(同情)→ Compassion(同調)→ Empathy(実相観入)→ Identification(共感)
一概に共感と言っても何段階かに分かれていて、最終的にはIdentificationに至りたい。つまり、他者は理解不能ではあるが、他者の中に自分自身を見出すことは可能です。その「他者の中に自己を見る」という見方。それが本来の「共感」の役割だと思うのです。Identificationの前にはEmpathyという相手にあえて入り込むというプロセスが必要となりますが、それが「物語を体験すること」=「追体験」ということになります。
ドラマ(演劇・小説)という物語の存在意義は、まさにここにあると思います。観客や読者を拒絶する物語も勿論存在し、その意味も理解できますが、基本は共感をツールとして追体験させるのがドラマの役割だと言えると思います。

「比較演劇学」では、その共感へ至る際に様々な障壁があることを自覚するため、ドラマの持つ危険な側面、すなわちプロパガンダの役割も認識します。日常的に「広告・宣伝」に晒され、自由意志のように思わされながら、実際はメディアの都合でコントロールされている事実に自覚的にならねばなりません。そのために古今東西、西洋東洋様々な素材を比較検討しながら、真の共感への道を阻害するものたちを認識します。

フランスの哲学者ミッシェル・フーコーによれば、精神病というものは時代の支配的価値観によって、様々な定義がなされ、永遠不変の精神疾患はないと結論づけています。(『狂気の歴史』)
それは狂気のみならず、あらゆる価値観に言えることではないでしょうか。我々が「当たり前」と考えている常識は、この時代の常識であって、その常識は権力の推移によっていとも簡単に翻ってしまう。そんな危うい世界に我々が暮らしていることを知らせてくれるのもまたドラマ(物語)の力であります。
様々な同じテーマを扱った作品を比較検討することによって、何が生まれ、何が失われてきたのか、深く理解できるでしょう。そこにはそれぞれの時代、そして現在の政治・経済の影響が深くのしかかってきます。時には社会学的アプローチや人類学的アプローチも必要になるでしょう。ドラマ作品はありとあらゆる時代や場所の影響を深く受けているからにほかなりません。
というわけで、いずれ、このプロセスを書物にまとめてみたいと思いますが、やはり講義するという発話の方が、まだ伝わりやすいのかもしれません。
このように、比較演劇学とは一般的な演劇評論、もしくは映画評論とはずいぶん違ったアプローチでドラマを読み解き、最終的には我々一人一人の「共感する力」を回復させたいという試みなのです。
あくまでも、ほんの表面をお伝えしたに過ぎませんが、比較演劇学の一端をご理解いただければ幸いです。
こんな講義を十数年に渡って展開させて頂いている法政大学・文学部・日本文学科には本当に感謝に耐えません。ありがとうございます。



