強制された連帯は共感ではない——善意の暴力について
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はじめに:善意という名の圧力
「正しいことをしている」という確信ほど、人を残酷にするものはありません。
歴史を振り返れば、最も多くの血が流れたのは、悪意ある者たちによってではなく、善意に満ちた者たちによってでした。異端審問官は魂を救うために火あぶりにしました。植民地主義者は「文明化」という使命を掲げて侵略しました。革命家は「人民のため」に粛清を行いました。そして今、21世紀の先進国において、私たちは別の形の善意に直面しています。
ポリティカル・コレクトネス。多様性と包摂。LGBTQの権利。#MeToo。気候正義。人種的公正。
これらは本質的に悪いことでしょうか? そうではありません。それぞれの運動が生まれた背景には、本物の痛み、本物の不正義があります。問題はその思想の核心にあるのではなく、それが社会に広がる方法と、それに伴う強制の構造にあります。
私たちはいつの間にか、「共感すること」と「共感を強制されること」の区別を失いつつあります。
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善意のイデオロギーはなぜ暴力になるのか
ハンナ・アーレントはかつて、「悪の凡庸さ」について語りました。しかし私が今注目したいのは、その対極——「善の凡庸さ」とでも呼ぶべきものです。
考えてみてください。職場の「多様性研修」を義務付けられた社員は、何を学ぶのでしょうか。人種差別はいけない、という知識でしょうか? それとも、「この空間では特定の感情を持つことが正しく、そうでない感情は持ってはいけない」というルールでしょうか?
強制された共感は、共感ではありません。それは服従です。
韓国の哲学者ビョン=チョル・ハンは著書『透明社会』の中で、現代社会における「ポジティビティの強制」について論じました。彼によれば、現代の権力は否定や禁止によってではなく、肯定と包摂の名の下に作動します。「あなたも参加しなければ排除される」という構造が、かつての抑圧と同じ機能を果たしています。
善意のイデオロギーはまさにそうです。「差別に反対しなければ差別主義者だ」「LGBTQを支持しなければ同性愛嫌悪者だ」「#MeTooに共鳴しなければ性差別主義者だ」。こうした二項対立の中では、沈黙すら罪となります。
問いを持つこと、疑問を呈すること、あるいは単に「まだよく分からない」と言うことが、もはや許されない空気があります。
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キャンセル・カルチャーという私刑
その最も極端な表れが、いわゆるキャンセル・カルチャーです。
公人が、あるいは一般市民が、ある発言や行為——多くの場合、過去のもの、文脈から切り取られたもの——によって、仕事を失い、社会的信用を失い、人間関係を失います。裁判もなく、弁明の機会もなく、反省を示しても許されないことすらあります。
これは正義でしょうか?
善意の群衆が石を投げます。誰もが「自分は正しい側にいる」と信じながら。この構造はかつての魔女裁判と何が違うのか、と問うとき、多くの人は不快感を示します。「あれは迷信に基づく無知な暴力だった。これは本物の不正義への正当な怒りだ」と言います。
しかし群衆の確信と正義感が、その暴力を免責するのでしょうか。
魔女裁判の参加者もまた、自分たちは社会を守っていると信じていました。
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多様性というパラドックス
「多様性」は現代の旗印です。しかしよく観察すれば、そこに深いパラドックスが潜んでいます。
多様性を推進する場において、最も許容されないのは——多様な意見です。
人種、性別、性的指向、宗教的背景の多様性は歓迎されます。しかし「LGBTQの権利拡大に疑問を持つ」「移民政策の見直しを論じたい」「多様性研修の効果に懐疑的だ」という意見は、多様性の名の下に排除されます。
これは多様性ではなく、外見の多様性と内面の均質化です。様々な背景を持つ人々が、ただ一つの「正しい考え方」を共有することを求められています。
ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』の中で、意見の多様性こそが社会を活性化し、真理へと近づかせると論じました。しかし今、私たちは「正しい多様性」と「誤った多様性」を分類する審判者を生み出してしまっています。
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#MeTooの光と影
MeToo運動が暴いた性的ハラスメントや権力による性暴力の問題は、確かに重要でした。長年沈黙を強いられてきた被害者たちが声を上げられる文化の変化は、必要なことでした。
しかしその運動が持つ「告発即有罪」の論理には、深刻な問題があります。
証拠の吟味もなく、文脈の検討もなく、当事者の弁明の機会もなく、SNS上の告発が事実として拡散され、人の人生を破壊します。その後、告発が虚偽だと判明しても、失われたキャリアと名誉は戻りません。俳優のケヴィン・スペイシーの事件などは典型的な、この「虚偽の告発による剥奪」の例なのです。
「被害者を信じよ」という原則は重要です。しかしそれは「被告人を信じるな」を意味しません。司法の根本である「無罪推定の原則」は、不快な現実ではなく、権力の濫用から個人を守るための文明の知恵です。
善意の名の下に私的制裁を正当化するとき、私たちは法治主義の土台を掘り崩しています。
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言語の政治化と思考の萎縮
ポリティカル・コレクトネスの問題の一つは、言語の過剰な政治化です。
特定の単語が「暴力的」と定義され、使用が禁じられます。配慮のある言葉遣いを求めること自体は理解できます。しかし、言葉の更新が絶えず速まり、昨日まで「正しかった」表現が今日は「差別的」になる世界では、人々は発言することへの恐怖を内面化します。
これをジョージ・オーウェルは「新語法(Newspeak)」と呼びました。ある概念を表す言葉を消去することで、その概念についての思考そのものを不可能にする——。小説『1984年』の中の全体主義国家の手法が、善意の形を借りて現代に現れているとしたら?
「言葉を慎重に選べ」という要求は、やがて「この問いを持つな」という要求に変わります。
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誰のための善意か
ここで根本的な問いに立ち返りたいと思います。
私たちは一体、誰のために善意を発揮しているのでしょうか。
SNSで差別反対を投稿するとき、それは本当に差別を受けた人々のためでしょうか? それとも「善意ある人間」としての自分のイメージのためでしょうか?
MeTooのハッシュタグをつけるとき、それは被害者のためでしょうか? それとも「正しい側にいる」と示すためでしょうか?
反対意見を持つ人物を激しく攻撃するとき、それは社会の不正義を正すためでしょうか? それとも自分の正義感を確認するためでしょうか?
フランスの哲学者ルネ・ジラールが「スケープゴート機制」と呼んだ現象があります。集団の内部に蓄積した緊張や攻撃性を、一人の「犠牲者」に向けることで共同体が一時的に結束するメカニズムです。キャンセル・カルチャーはその現代的な形に見えます。共通の敵を持つことで、善意の共同体は結束します。問題は、その「敵」の選定に正義があるかどうかです。
自己の正義感を強化するために他者を糾弾するとき、その行為の受益者は被害者ではなく、糾弾する者自身です。これを「善意」と呼ぶことができるでしょうか。
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強制された連帯の空虚さ
本物の連帯とは何でしょうか。
それは、共通の目的に向けて自発的に集まることです。苦しみを自分ごととして感じ、行動することです。それは強制されるものではなく、内側から湧き出るものです。
しかし「多様性と包摂」の文化が強制するのは、外形的な行動です。ある言葉を使え、ある研修を受けろ、ある考えを持て。内面の変化ではなく、行動の服従を求めます。
強制によって作られた「連帯」の光景は、確かに壮観に見えるかもしれません。しかしその内実は空洞です。義務として差別反対を表明する人々の中に、本物の共感はどれだけあるのでしょうか。逆に、外形的な服従の要求が、静かな反発と隠れた偏見を育てているのではないでしょうか。
本物の変化は、心の中から起きます。そしてそれは、強制によっては決してもたらされません。
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演劇が問い直すもの——単一視点の是正として
ここで少し、演劇という視点から考えてみたいと思います。
演劇は本質的に、イデオロギーに奉仕するものではありません。それはある瞬間に立ち現れる倫理に奉仕するものです。あらかじめ用意された「正しい答え」に向かって進む装置ではなく、登場人物たちが葛藤し、迷い、考え続ける過程そのものを描写するものです。
だからこそ、舞台の上では悪人も善人も同じ声量で語ります。加害者にも内面があり、被害者にも矛盾があります。観客は単純に「正しい側」に立つことを許されません。演劇空間とは、あらゆる登場人物の視点を同時に生きる体験の場なのです。
しかし今、世界は自分たちのいる場所がドラマの生まれる場所であることを忘れつつあるように見えます。SNSの断片的な言葉が感情を爆発させ、文脈は消え、複雑さは単純化され、人は「正しい側」か「間違った側」かに振り分けられます。
その硬直した世界では、正しさも善意も一方向からしか見えなくなっています。
演劇やドラマが持つ本質的な価値は、まさにその単一視点の是正にあるのかもしれません。舞台の上では、あなたが憎む人物の独白に思わず共感させられる瞬間があります。自分が信じていた「正義」が、別の角度から見れば「暴力」に見えることがあります。それは否定ではなく、認識の拡張です。
絶対的な正しさを疑うことを可能にする場所——演劇はその最後の砦の一つかもしれません。
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おわりに:不快な問いを持ち続けること
私はここで、差別は許容されるべきだとか、マイノリティの権利は守られなくてもよいと言いたいのではありません。それらの問題は本物であり、取り組まれるべきです。
私が問いたいのは、方法です。
善意を疑うことは、悪意を肯定することではありません。「この運動は正しい目的を持つが、この手段は危険だ」と言うことは可能なはずです。しかし今の文化では、そのような区別をしただけで「敵側」と見なされます。
複雑さを認めること、不確かさの中に留まること、反対意見を聞くこと——これらはかつて知性の美徳とされていました。今、それらは「差別への加担」と同義にされつつあります。
善意が暴力に変わる瞬間は、問いを封じるときです。
私たちが守るべきは、正しい結論ではなく、正しく考えるための過程です。多様性の本当の意味は、様々な外見の人々が同じことを考えることではなく、様々な人々が自由に、異なることを考えられることのはずです。
強制された連帯は共感ではありません。それは服従です。
そして服従から生まれる社会は、どれほど善意に彩られていても——自由ではありません。
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この文章は、特定の政治的立場を支持することを目的としていません。あらゆる方向からの「善意の暴力」に対する批判的思考の試みとして書かれました。
次回:「沈黙は賛成ではない——同調圧力に飲み込まれない思考の作法」
(テーマ)『同調圧力 vs 共感——その違いはどこにあるか』
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