家路についた
『家路についた』

久しぶりのブログ投稿である。
SNSもブログもどこか自分の中で、ある距離感を持って接してきたが、再びブログを定期的にアップしていこうと計画している。距離感が失われるわけではないが、もう少し関わっていこうという心境の変化だ。
昨年2025年から世界の状況がそれ以前より大きく様変わりしている。もはやこれまで陰謀論や都市伝説と呼ばれていた諸々の事象が徐々に事実と判明しつつある。
この世界を右と左に分けたり、自由と不自由を分けたり、敵と味方に分けたり、常に二項対立を煽ってきた世界情勢が、ここにきて完全なる「分断統治」そのものであることが見え始めた。ポリティカル・コレクトネスの横行、LGBTQの性に対する攻撃、家族制度の破壊、無分別な移民政策による国家破壊、教育制度とその中身の空洞化と弱体化、ブラックロックやバンガード・グループといった巨大大株主中心経済政策、AIを理由に個人の存在価値を否定する風潮、etc.
……こうした現象の背後にある「分断統治」という数百年もしくは数千年使われてきた統治方法だが、それに気づいたからといって、すぐに世界の構図が変わるわけではない。だが、少なくとも「見え方」は変わる。どう見るかは変わる。
これまで私たちは、怒るべき対象を与えられ、恐れるべき存在を提示され、守るべき価値をメディアを通しあらかじめ選別されてきた。右か左か、体制か反体制か、陰謀を信じるか否か。そのどれもが、あらかじめ用意された座標の上での選択だったのではないかという疑念が、今になって静かに広がっている。
分断(二項対立等)は偶然ではなく、人為的構造である。
対立(戦争等)は自然発生ではなく、文明による意図的設計である。
もしそれが事実だとすれば、私たちは長いあいだ「選んでいるつもり」で、実は選ばされていたのかもしれない。いや、事実、選ばされてきたのだ。
だが、ここで重要なのは、怒りを新たな標的へ向けることではない。陰謀を暴くことそのものが目的ではないし、目的になり得ない。なぜなら人為的構造と文明による意図的設計を知った後に問われるのは、私たち自身の立ち位置だからだ。
分断統治の最大の特徴は、敵を作ることではなく、「敵がいる」という物語を常に更新し続けることにある。その物語に参加する限り、たとえ体制批判をしている側であっても、構図そのものを強化してしまう。
だから私は、いったん距離を取ろうと思った。
距離とは無関心になるということではない。
距離とは、構図の外に立つための空間だ。思考の余白であり、即断しない決意である。
この数年、世界は激しく動いた。パンデミック、戦争、経済の揺らぎ、情報の洪水。だが、もっと深い層では、「何を恐れるか」「誰を疑うか」「どの情報を信じるか」という心理の再認識と再思考が進んでいたように感じる。
その心の揺らぎに気づいたとき、不思議と静かな感覚が訪れた。
怒りでもなく、絶望でもない。
むしろ、帰路に立ったような感覚だ。
『家路についた』というタイトルは、世界が落ち着いたという意味ではない。
むしろ逆だ。外界は依然として騒がしい。混乱と混沌と喧噪の渦の中で方向を見失っている。
だが、そんな中で、自分の内側に戻る感覚を取り戻したぞ、という意味での「家路」なのである。
外で起きている出来事は重要だ。しかし、それ以上に重要なのは、私たちがどのようにそれを受け取り、どのように語り、どのように自らの思考を形づくるかである。
分断を超えるとは、どちらかの側に立つことではない。
分断という構図そのものに回収されない立ち方を模索することだ。
そのために、私は再び書く。
声高に煽るためではない。
静かに思考するために。
ブログという場所は、小さな空間にすぎない。
だが、ここを自分の「帰る場所」にしようと思う。
騒音のなかで、いったん立ち止まり、
問いを持ち直し、
恐れに巻き込まれず、
怒りに利用されず、
それでも世界を見続ける。
家路についたのは、逃避ではない。
ここから、もう一度歩き出すためだ。
私は今日家路についた。
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