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近道なんかロクなもんじゃねぇ!

『丁寧な日常』

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『丁寧な日常』

V-net教育相談事務所で現在教鞭を執る岸朱夏先生の撮られた短編映画「ななめの食卓」について書きました。

もしよかったら、お読みください。

先日、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2020に出品された短編映画を見る機会を得た。
映画のタイトルは「ななめの食卓」

ほとんどの場面が室内で行われる、まるで舞台劇を観るような濃密な空気感がそこにあった。わずか27分という短い物語の中で、静かに繰り返される対話はまさに日常のありふれた言葉だが、だからこそ、そこには誰もがどこかで見たり感じたりしたことがある誠実な肌触りがあった。

アメリカ映画にあるような暴力的な対立を煽るところもなければ、韓国映画のような激しい情緒もない、むしろそこには日本家屋の持つ静謐さそのものが発するような「柔らかな視線」があった。

2000年代以降、小劇場等でも「日常」はテーマになり、なにも起こらない日常を描く芝居が多く上演された経緯がある。勿論、それらはとても興味深い日本の様々な種類のリアルを描いてはいたが、優しさは少なかった。日常は退屈でつまらなく、だらだらと間延びし憂鬱でカッタルイもの。僕らの日常は無意味で充満し、希望はおろか深い絶望すら見失っている。そんなリアリズム演劇がかなり長いこと下北沢周辺から日本のドラマの色を変えてきた。
実際、この世界に対する胡散臭さや偽物臭に敏感な人々は、そうしたリアリズム演劇に日常の真実を見出したようだった。そして、かくいう僕もその一人だった。

しかしながら、そうしたドラマに大きく欠けていたものがあった。
それは、優しさである。日常で何も起こらないはずがない。優しさはなかなか見えにくいのである。
優しさなんてものは、結果であって、求めるものでもないというのは重々承知の上ではあるが、やはり「優しさ」は大切なのだ。優しさを忘れた批判も批評も、それはやがて厳しさを理由に暴力に堕すだろう。優しさは甘やかすことではない。優しさとは、相手をそっと見守るその視線そのもののことかもしれない。
親子、兄弟姉妹、友人同士、師弟、そうした関係性の中で、優しさは確かに育まれることは多いだろう。

この「ななめの食卓」という映画の意外性は、まさにその点にある。
妻を亡くした男とその亡き妻の母との奇妙な二人暮らしを描くこの作品では、優しさこそ生活を成立させる大きな原因となっていた。
そもそも二人は赤の他人だが、亡き妻と娘という接点のみで、生活が続いていくのだ。
夫婦という関係性が他人同士の共同生活から始まるわけだが、夫婦でもないのに、それでも継続する接点を失った家族。
その二人を結びつけるのも優しい互いを見つめる視線なのだと物語の終わりに気付かされる。亡くなった妻であり娘である女性が作り置きしていたカレーを残された義母と娘婿が食卓で初めて向き合って食べるとき、観るものは二人の関係の優しさに、魂が揺り動かされるのである。

葛藤や軋轢というものは、怒鳴り合い、憤り合うことばかりでないのだということがよく分かる。置かれた状況そのものが葛藤であり軋轢なのだから、その中で人はなんとかして優しさを見出そうとするのだろう。
かつてより、日本のドラマ作品にはこうした静かなる葛藤を描くものが多くあった。例えば昭和12年の山中貞雄監督の「人情紙風船」、小津安二郎監督の「東京物語」、黒澤明監督の「生きる」、木下恵介監督の作品群等など。

「ななめの食卓」という作品は、早稲田大学の学生たちによって創られた新しい作品にも関わらず、長い間忘れられていた過去の巨匠たちの作品の系譜に並ぶものだということがよく分かった。そして、コロナ禍で喘ぐこの時代に、人々の揚げ足を取るようなクレームや匿名や名声を利用してSNSで人々軽々しく追い込んでいく空気の中で、他者を思いやる「優しさ」をテーマにしたことは本当に貴重な作品なのだと思う。

ただただ目新しいものを創り出すことが最善とされる時代に、「今失われている大切なもの」を描くこの作品の存在は、僕にも静かに明るい未来を予感させてくれる大切な想い出になりました。監督、スタッフ、そしてキャストの皆さんに感謝!!!

ありがとう!!!

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映画「ななめの食卓」詳細

監督:岸朱夏
出演:高間智子、清田智彦、谷川清美、玉置祐也、山下真琴

< 解説 >
突然直面することになった「遺された家族の生活」を、戸惑いながらも次第に受け入れていく義理の親子を題材にしたのは現役大学生、岸朱夏。微妙な二人の心情を、毎日座る食卓の位置でうまく表現している。本作は早稲田大学の基幹理工学部による映像制作実習で制作されている。今年で5年目となる本プログラムは、映像学科や専門学校と異なり、映像制作の技術を学ぶことよりも、制作過程においてお互いの考え方や姿勢を学ぶことを目的としている。映像制作経験もほぼないスタッフの中で作り上げられたという事実に驚くものの、授業の担当教員に是枝裕和監督や篠崎誠監督が名前を連ねており、日本を代表する錚々たる監督陣の指導によるものだとわかると、納得もいく。本映画祭での上映がワールド・プレミアとなる。

< 物語 >
妻を亡くした男と、義母。家族でもあり、他人でもある微妙な距離感。
向かい合って座れる日は来るのだろうか?
一緒に暮らす会社員の達紀と義母の信子は、いつも決まってななめ向かいに食卓につき、会話にも態度にもぎこちなさを隠せずにいる。二人を繋いでいたはるは、交通事故で急逝していた。信子は娘を、達紀は妻を失った悲しみを抱え、互いを気遣いながらも自分たちの今後を決めあぐねていたのだが…。『ななめの食卓』

予告編|SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2020 国内コンペティション(短編部門)


君よ、恐れることなかれ!

写真:米島虎太朗君撮影

少々長い文章、許してね。ある知り合いの青年に対して書いたものです。よかったら、読んでみてください。

『君よ、恐れることなかれ』

秋の気配も感じられる今日このごろ、永い永いコロナ禍の中、僕らの中に必要以上に何者かに恐れる感情が増幅されているような気がします。

他者の評価が怖い。どう見られているのかが怖い。失敗したくない。完璧でいたい。間違いをなくしたい。常に不安なので、何事も消極的にしかできない。顔色を伺う。空気を読むというより、むしろ先回りして忖度する。冒険しない。傷つかないための努力をおしまない。見て見ぬふりをする。同調圧力というより、むしろ自ら進んで同調していく。SNS等での匿名の顔なし発言では、誰よりも威勢がいい。内容よりも見かけが大事。努力より要領が大事。プロセスより結果が大事。人を騙すより騙される方が怖い。だから、間違いたくない。失敗したくない。

こうした心理的循環(Circulation)は、現在日本のみならず世界で蔓延している類似状況のような気がしますが、特にこの国では、「不安」→「消極性」への繰り返す循環が顕著のようです。その背景に、日本特有の「隣組」的な同調圧力が今もなお根強く存在することが、昨今のコロナ禍でも明白です。

よく言われることですが、現代日本の原型は明治の開国時にあります。

江戸と現代はどうも一直線には繋がっていないようです。それは明治の開国期が、日本に対する欧米列強による植民地支配の第一回目に対応していることから明らかでしょう。欧米の価値観の流入により大幅に外面的な様子と価値観の細部が影響を受け変化したわけです。そして1945年の敗戦時に米国による更なる植民地化によってこの傾向が進みます。これが二回目の植民地化です。

この辺りから、日本人は極端に、もしくは、必要以上に「失敗を恐れる」ようになり、「他者に同調する」傾向が強まったのではないかと推測します。というのも、江戸期の日本人はもっとばらばらで、いい加減で、適当だったことが、例えば歌舞伎の歴史的な推移からも見て取れます。歌舞伎の主要な観客であった町人たちはいい加減に歌舞伎を楽しんでいたので、江戸期の歌舞伎は町人の楽しみだったわけですが、明治以降、劇場が枡席から椅子席へ変わり、プロセニアムという額縁舞台になり、まるでクラシックのコンサートのように静かに鑑賞するものに変わりました。ここでは適当もいい加減も大騒ぎも許されません。まさに他者との関係により同調的になり、忖度するものが正しい世界に様変わりしたというわけです。しーんと静まり返った劇場の原点は不思議なことにこの開国期から現在に至っているのだと思われます。すなわち、「同調圧力」(周りに合わせ失敗を許さぬ雰囲気)の始まりは欧米化に対する「過剰適応」の結果だったのではないかと推察します。現在現実の欧米の劇場はそんなことはないのね。故に過剰適応だと思う。

日本の学校教育はまさにこの「同調圧力」の路線に乗っかって行われています。

僕らの頃(昭和期)も、今もなお、教師たちは心を込めて「失敗のないよう」に指導したがります。生徒に失敗しないように指導することが正しいらしい。したがって、生徒から見れば、失敗したり間違うことは「良くないこと」なので、極力それを避けようとします。その結果、顔色をうかがうようになり、声は小さくなり、目を合わせず、言い直すことを極端に嫌がり、間違うよりも無解答を選ぶようになります。

同調圧力というのは様々な形を伴いますが、間違わないように、あらゆることを消極的に行うという姿勢もまた、ひとつの同調圧力の結果ではないでしょうか。

教師は生徒に失敗しないように指導する。生徒は失敗したり間違えたりすると叱られるので声を控え、冒険はしなくなり、常に周囲の目や評価を恐れるようになる。これは生徒のみならず教師も同じではありませんか?そして、日本社会全体がこの傾向に陥ってはいませんか?常にあらゆることが「消極的」に進んでいくこの傾向に。

ニヤニヤ笑いながら要領の良い人間が尊ばれ、要領が悪く時間のかかる人間は顧みられない社会。

これは大きく間違っている。

「失敗や間違いが許されない」ということが間違っている。

「大多数に所属していれば安心」という態度が間違っている。

いい歳をして青臭いと思われる向きもあるかもしれませんが、僕には最近の目に余るこうした間違いを許さない風潮がどうにも我慢がなりません。

間違いや失敗はない方がいいに決まっていますが、間違いや失敗がなければ僕らは何も学べません。試行錯誤以外に学ぶ手段はないのですから。

しかし、間違いや失敗を恐れる気持ちが固定化すると、試行錯誤が不可能になり、全てにおいて消極的になり、思考力も衰え、判断力は減退し、簡単に被支配層に転落します。

その意味で、まさに現代の「恐れる傾向」は新自由主義的経済帝国主義には欠かせない支配ツールになっているのでないかと僕は思っています。ここにきて明治開国以降の世界的経済支配が完成しようとしているわけですが、その中でもう一度試行錯誤する勇気を認識し獲得することは、本当に重要な意味があると考えます。

現在、新しい政権が、そのスローガンの冒頭に「自助」を掲げています。

それは、数十年ほど前から顕著になった「自己責任」の謂であります。自己責任はとても大切な考え方ではありますが、これもまたとても支配層には都合の良い言葉になっています。この言葉もまた「恐れる気持ち」を強めています。すなわち、この世のすべてが自己責任なのだから、失敗や間違いは絶対に許されない、と暗に教育しているわけです。恐れる気持ちは創り出されているのです。創造された恐れに僕らはひたすら怯えているのが現状なのではないでしょうか。

コロナもテロも自然災害も、まったく支配層に都合の良い目に見えない恐怖を僕らにもたらしています。目に見えないわけですから、ひたすら恐れて、あらゆることがに対して消極的にならざるを得ません。

2001年のテロの恐怖、2011年の地震と津波の恐怖、2020年のコロナのウィルスの恐怖、このところほぼ十年ごとに偶然のように繰り返される目に見えない恐怖によって、人々は世界中で恐れることが日常してしまっているようです。

確かに、こうした恐怖の源は世界のいたる所にあり、恐れずにはいられません。ですが、「恐れること」や「怖がる態度」だけでは決して防御の姿勢とは言えないのではないでしょうか。

むしろ、本質的恐怖と向き合うために、TRIAL & ERROR(試行錯誤)を繰り返し正しく間違い、正しく失敗し、正しく分析を重ねる方が意味があるのだと思います。

失敗や間違いを恐れるあまり、そして自己責任を回避しようとするあまり、更に他人からの評価を下げたくないあまり、目の前の問題を本質的に分析することさえできなくなっている、というのが現状のような気がします。

そして、現在コロナがその消極性を更に後押ししてるというところではないでしょうか。罹患者を悪戯に責めたり、マスク警察の行動や、有名人に対する攻撃を面白がるという風潮は、激しさを増しているのではないかな。それもすべては訳もなく怖いから。

それ故に、はっきりしているのは、無闇矢鱈に恐れないこと。失敗や間違いを気にして消極的になり過ぎないこと。むしろ、失敗や間違いを体験することの方が価値あるプロセスであることに気が付きたい。

人の目を意識するあまりに攻撃的なるのはやめたい。むしろ自らの痛みから想像力を育むことで災厄から最終的に身を守ることになるのではないかな。

まず完璧主義をやめる。

失敗と間違いを楽しむ。

自己責任を人に押し付けない。

不安を他人に向けた攻撃に転化させない。

これまで受けてきた教育の内容と常識をもう一度疑うこと。

僕たちはこの百年以上もの間に、見事なぐらい、絶えず怯えた消極的で無責任な他動的な状態を恒常的にしてきたのだと思うな。

この世には、あたり前のことだが、誰一人完璧な人間もいないし、だからといって不完全に開き直る必要もないが、堂々と失敗し間違い、それを意味あるものとして経て、自己の体験を積んでいけたなら、現在のような萎縮し、いじけた世界を乗り越えられるのではないかな。理想論かもしれないが、まずは「試行錯誤」を日々の基本に据えたいと僕は思います。

間違ってこそ人生。失敗してこそ人生。

だから、君よ、恐れることなかれ!明日は明日の風がふくからさ。