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教育

『逆転した時代の中で』

我那覇真子(がなは まさこ)さんというジャーナリストがいる。

現在のアメリカ大陸内で何が起きているのか、彼女ほど詳細に報道してくれるジャーナリストを僕は知らない。

メインストリームのメディアは現在すでに死に体であるが、それは商業主義的価値観で権力や企業に忖度することがもはや常識になってしまっている以上、メインストリームの情報は今や意味を持たなくなっているからである。既存のテレビも、既存の新聞も、全く当てにならない時代に突入している。

では、ネット上の情報サイトやSNSが信用できるかといえば、決してそんなことはない。むしろ、Twitter社もFacebookもYouTubeもGoogleも当てにはならない。なぜなら、驚くべきことに、彼らは昨年より恣意的に削除や投稿禁止処置、もしくは「検閲(Censorship)」をあからさまに行使するようになった。

グローバリズムというものが、かつてハンナ・アーレントが述べた今後来るであろうナチズム以上に強大な全体主義の、その現れではないかとずっと考えてきた。
今まさにANTIFA(アンティーファ)であるとかBLM(Black Lives Matter)といった反ファシズムを標榜する集団が暴力的に市民を攻撃するといった状況が生まれてきている。こういった全体主義に対抗するという姿勢で新たな全他主義が構築されていく様子を見るにつけ、こうした動きは他国に限った話ではなく、全世界規模の暴力的な全体主義への転換点に、僕らは今いるのだと気が付かざるを得ないのである。
まさにファシズムは「反ファシズム」の形をとって、全体主義は「反全体主義」の形態をとって現れるのである。

その意味では、世界的に極右であるとか暴力的だとか騒がれる「Q anon」や「Proud Boys」といった人々の言説は、とてもまともに思えてくる。

例えば、アメリカの議事堂に無理やり入り込み、暴れたあげく、一人の女性が射殺された事件があったが、議事堂内に入り込んだ人物たちは自らを「Q anon」と名乗ったが、実際はANTIFAのメンバーであったことが判明している。日本のマスメディアは何もまともに報道することはないが、現地にいて、直接現場を目撃した我那覇真子さんによる詳細な報告によれば、事実は報道とはまるで逆なのである。

いずれ、彼女の動画による報告もYouTube上では見られなくなるかもしれない。しかし、現在様々なメインストリーム以外の新たなSNS等が開発されつつあり、不測の事態が起ころうとも、なんとかその素晴らしい個人でしかできない「真の報道」を続けてもらいたいと思う。

現実の、この逆転した価値観と逆転した事実を、真に理解することは本当に難しい。その意味ではG.オーウェルの描いた「1984」の世界が、今現実化しているのだと思う。まさに「いいは悪い、悪いはいい」というシェイクスピアの言葉通りにこの世界は動いているようだ。

現在僕らはパンデミックの本質を少しもわからないうちに、あれよあれよという間にワクチン接種という段階にいる。十分な治験も終わっていないワクチンであることは、あまりメディアで取り上げられtることはない。
例えば、ファイザー社は2023年5月、モデルナ社は2022年10月までが治験期間であり、現在はまさに治験の真っ最中ということになる。つまり実験段階であるということ。このことはしっかり抑えておきたい。
そんな中でオリンピックの大合唱がメディアを覆い、気が付かないうちに国会ではどんどんと新たな法案が決まっていく。

このような狂躁的、あるいは逆に鬱的な時代において、しっかりと地に足をつけたたった一人のジャーナリストの声はとても勇気づけられるものだ。

日々、メディアによって垂れ流されている「権威に基づいたホントらしい情報」という幻想をそろそろ捨てて、個人でしっかりと見つめた人物の報道を信用したいと僕は思う。感謝!!

我那覇真子ブログ:

https://note.com/masakoganaha/

我那覇真子:YouTube(最新の報道はこちらで!)

https://youtube.com/channel/UCCYNZu_NQIm2-PzMyHg55OQ

次の動画を見ると、大手メディアの現在の状況が認識できると思う。

この動画では極右と言われる「プラウドボーイズ」の真の姿がわかるだろう。メインストリームでは決して触れない部分。


『丁寧な日常』

JS Sitting

『丁寧な日常』

V-net教育相談事務所で現在教鞭を執る岸朱夏先生の撮られた短編映画「ななめの食卓」について書きました。

もしよかったら、お読みください。

先日、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2020に出品された短編映画を見る機会を得た。
映画のタイトルは「ななめの食卓」

ほとんどの場面が室内で行われる、まるで舞台劇を観るような濃密な空気感がそこにあった。わずか27分という短い物語の中で、静かに繰り返される対話はまさに日常のありふれた言葉だが、だからこそ、そこには誰もがどこかで見たり感じたりしたことがある誠実な肌触りがあった。

アメリカ映画にあるような暴力的な対立を煽るところもなければ、韓国映画のような激しい情緒もない、むしろそこには日本家屋の持つ静謐さそのものが発するような「柔らかな視線」があった。

2000年代以降、小劇場等でも「日常」はテーマになり、なにも起こらない日常を描く芝居が多く上演された経緯がある。勿論、それらはとても興味深い日本の様々な種類のリアルを描いてはいたが、優しさは少なかった。日常は退屈でつまらなく、だらだらと間延びし憂鬱でカッタルイもの。僕らの日常は無意味で充満し、希望はおろか深い絶望すら見失っている。そんなリアリズム演劇がかなり長いこと下北沢周辺から日本のドラマの色を変えてきた。
実際、この世界に対する胡散臭さや偽物臭に敏感な人々は、そうしたリアリズム演劇に日常の真実を見出したようだった。そして、かくいう僕もその一人だった。

しかしながら、そうしたドラマに大きく欠けていたものがあった。
それは、優しさである。日常で何も起こらないはずがない。優しさはなかなか見えにくいのである。
優しさなんてものは、結果であって、求めるものでもないというのは重々承知の上ではあるが、やはり「優しさ」は大切なのだ。優しさを忘れた批判も批評も、それはやがて厳しさを理由に暴力に堕すだろう。優しさは甘やかすことではない。優しさとは、相手をそっと見守るその視線そのもののことかもしれない。
親子、兄弟姉妹、友人同士、師弟、そうした関係性の中で、優しさは確かに育まれることは多いだろう。

この「ななめの食卓」という映画の意外性は、まさにその点にある。
妻を亡くした男とその亡き妻の母との奇妙な二人暮らしを描くこの作品では、優しさこそ生活を成立させる大きな原因となっていた。
そもそも二人は赤の他人だが、亡き妻と娘という接点のみで、生活が続いていくのだ。
夫婦という関係性が他人同士の共同生活から始まるわけだが、夫婦でもないのに、それでも継続する接点を失った家族。
その二人を結びつけるのも優しい互いを見つめる視線なのだと物語の終わりに気付かされる。亡くなった妻であり娘である女性が作り置きしていたカレーを残された義母と娘婿が食卓で初めて向き合って食べるとき、観るものは二人の関係の優しさに、魂が揺り動かされるのである。

葛藤や軋轢というものは、怒鳴り合い、憤り合うことばかりでないのだということがよく分かる。置かれた状況そのものが葛藤であり軋轢なのだから、その中で人はなんとかして優しさを見出そうとするのだろう。
かつてより、日本のドラマ作品にはこうした静かなる葛藤を描くものが多くあった。例えば昭和12年の山中貞雄監督の「人情紙風船」、小津安二郎監督の「東京物語」、黒澤明監督の「生きる」、木下恵介監督の作品群等など。

「ななめの食卓」という作品は、早稲田大学の学生たちによって創られた新しい作品にも関わらず、長い間忘れられていた過去の巨匠たちの作品の系譜に並ぶものだということがよく分かった。そして、コロナ禍で喘ぐこの時代に、人々の揚げ足を取るようなクレームや匿名や名声を利用してSNSで人々軽々しく追い込んでいく空気の中で、他者を思いやる「優しさ」をテーマにしたことは本当に貴重な作品なのだと思う。

ただただ目新しいものを創り出すことが最善とされる時代に、「今失われている大切なもの」を描くこの作品の存在は、僕にも静かに明るい未来を予感させてくれる大切な想い出になりました。監督、スタッフ、そしてキャストの皆さんに感謝!!!

ありがとう!!!

………………………………………………………………………….
映画「ななめの食卓」詳細

監督:岸朱夏
出演:高間智子、清田智彦、谷川清美、玉置祐也、山下真琴

< 解説 >
突然直面することになった「遺された家族の生活」を、戸惑いながらも次第に受け入れていく義理の親子を題材にしたのは現役大学生、岸朱夏。微妙な二人の心情を、毎日座る食卓の位置でうまく表現している。本作は早稲田大学の基幹理工学部による映像制作実習で制作されている。今年で5年目となる本プログラムは、映像学科や専門学校と異なり、映像制作の技術を学ぶことよりも、制作過程においてお互いの考え方や姿勢を学ぶことを目的としている。映像制作経験もほぼないスタッフの中で作り上げられたという事実に驚くものの、授業の担当教員に是枝裕和監督や篠崎誠監督が名前を連ねており、日本を代表する錚々たる監督陣の指導によるものだとわかると、納得もいく。本映画祭での上映がワールド・プレミアとなる。

< 物語 >
妻を亡くした男と、義母。家族でもあり、他人でもある微妙な距離感。
向かい合って座れる日は来るのだろうか?
一緒に暮らす会社員の達紀と義母の信子は、いつも決まってななめ向かいに食卓につき、会話にも態度にもぎこちなさを隠せずにいる。二人を繋いでいたはるは、交通事故で急逝していた。信子は娘を、達紀は妻を失った悲しみを抱え、互いを気遣いながらも自分たちの今後を決めあぐねていたのだが…。『ななめの食卓』

予告編|SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2020 国内コンペティション(短編部門)


君よ、恐れることなかれ!

写真:米島虎太朗君撮影

少々長い文章、許してね。ある知り合いの青年に対して書いたものです。よかったら、読んでみてください。

『君よ、恐れることなかれ』

秋の気配も感じられる今日このごろ、永い永いコロナ禍の中、僕らの中に必要以上に何者かに恐れる感情が増幅されているような気がします。

他者の評価が怖い。どう見られているのかが怖い。失敗したくない。完璧でいたい。間違いをなくしたい。常に不安なので、何事も消極的にしかできない。顔色を伺う。空気を読むというより、むしろ先回りして忖度する。冒険しない。傷つかないための努力をおしまない。見て見ぬふりをする。同調圧力というより、むしろ自ら進んで同調していく。SNS等での匿名の顔なし発言では、誰よりも威勢がいい。内容よりも見かけが大事。努力より要領が大事。プロセスより結果が大事。人を騙すより騙される方が怖い。だから、間違いたくない。失敗したくない。

こうした心理的循環(Circulation)は、現在日本のみならず世界で蔓延している類似状況のような気がしますが、特にこの国では、「不安」→「消極性」への繰り返す循環が顕著のようです。その背景に、日本特有の「隣組」的な同調圧力が今もなお根強く存在することが、昨今のコロナ禍でも明白です。

よく言われることですが、現代日本の原型は明治の開国時にあります。

江戸と現代はどうも一直線には繋がっていないようです。それは明治の開国期が、日本に対する欧米列強による植民地支配の第一回目に対応していることから明らかでしょう。欧米の価値観の流入により大幅に外面的な様子と価値観の細部が影響を受け変化したわけです。そして1945年の敗戦時に米国による更なる植民地化によってこの傾向が進みます。これが二回目の植民地化です。

この辺りから、日本人は極端に、もしくは、必要以上に「失敗を恐れる」ようになり、「他者に同調する」傾向が強まったのではないかと推測します。というのも、江戸期の日本人はもっとばらばらで、いい加減で、適当だったことが、例えば歌舞伎の歴史的な推移からも見て取れます。歌舞伎の主要な観客であった町人たちはいい加減に歌舞伎を楽しんでいたので、江戸期の歌舞伎は町人の楽しみだったわけですが、明治以降、劇場が枡席から椅子席へ変わり、プロセニアムという額縁舞台になり、まるでクラシックのコンサートのように静かに鑑賞するものに変わりました。ここでは適当もいい加減も大騒ぎも許されません。まさに他者との関係により同調的になり、忖度するものが正しい世界に様変わりしたというわけです。しーんと静まり返った劇場の原点は不思議なことにこの開国期から現在に至っているのだと思われます。すなわち、「同調圧力」(周りに合わせ失敗を許さぬ雰囲気)の始まりは欧米化に対する「過剰適応」の結果だったのではないかと推察します。現在現実の欧米の劇場はそんなことはないのね。故に過剰適応だと思う。

日本の学校教育はまさにこの「同調圧力」の路線に乗っかって行われています。

僕らの頃(昭和期)も、今もなお、教師たちは心を込めて「失敗のないよう」に指導したがります。生徒に失敗しないように指導することが正しいらしい。したがって、生徒から見れば、失敗したり間違うことは「良くないこと」なので、極力それを避けようとします。その結果、顔色をうかがうようになり、声は小さくなり、目を合わせず、言い直すことを極端に嫌がり、間違うよりも無解答を選ぶようになります。

同調圧力というのは様々な形を伴いますが、間違わないように、あらゆることを消極的に行うという姿勢もまた、ひとつの同調圧力の結果ではないでしょうか。

教師は生徒に失敗しないように指導する。生徒は失敗したり間違えたりすると叱られるので声を控え、冒険はしなくなり、常に周囲の目や評価を恐れるようになる。これは生徒のみならず教師も同じではありませんか?そして、日本社会全体がこの傾向に陥ってはいませんか?常にあらゆることが「消極的」に進んでいくこの傾向に。

ニヤニヤ笑いながら要領の良い人間が尊ばれ、要領が悪く時間のかかる人間は顧みられない社会。

これは大きく間違っている。

「失敗や間違いが許されない」ということが間違っている。

「大多数に所属していれば安心」という態度が間違っている。

いい歳をして青臭いと思われる向きもあるかもしれませんが、僕には最近の目に余るこうした間違いを許さない風潮がどうにも我慢がなりません。

間違いや失敗はない方がいいに決まっていますが、間違いや失敗がなければ僕らは何も学べません。試行錯誤以外に学ぶ手段はないのですから。

しかし、間違いや失敗を恐れる気持ちが固定化すると、試行錯誤が不可能になり、全てにおいて消極的になり、思考力も衰え、判断力は減退し、簡単に被支配層に転落します。

その意味で、まさに現代の「恐れる傾向」は新自由主義的経済帝国主義には欠かせない支配ツールになっているのでないかと僕は思っています。ここにきて明治開国以降の世界的経済支配が完成しようとしているわけですが、その中でもう一度試行錯誤する勇気を認識し獲得することは、本当に重要な意味があると考えます。

現在、新しい政権が、そのスローガンの冒頭に「自助」を掲げています。

それは、数十年ほど前から顕著になった「自己責任」の謂であります。自己責任はとても大切な考え方ではありますが、これもまたとても支配層には都合の良い言葉になっています。この言葉もまた「恐れる気持ち」を強めています。すなわち、この世のすべてが自己責任なのだから、失敗や間違いは絶対に許されない、と暗に教育しているわけです。恐れる気持ちは創り出されているのです。創造された恐れに僕らはひたすら怯えているのが現状なのではないでしょうか。

コロナもテロも自然災害も、まったく支配層に都合の良い目に見えない恐怖を僕らにもたらしています。目に見えないわけですから、ひたすら恐れて、あらゆることがに対して消極的にならざるを得ません。

2001年のテロの恐怖、2011年の地震と津波の恐怖、2020年のコロナのウィルスの恐怖、このところほぼ十年ごとに偶然のように繰り返される目に見えない恐怖によって、人々は世界中で恐れることが日常してしまっているようです。

確かに、こうした恐怖の源は世界のいたる所にあり、恐れずにはいられません。ですが、「恐れること」や「怖がる態度」だけでは決して防御の姿勢とは言えないのではないでしょうか。

むしろ、本質的恐怖と向き合うために、TRIAL & ERROR(試行錯誤)を繰り返し正しく間違い、正しく失敗し、正しく分析を重ねる方が意味があるのだと思います。

失敗や間違いを恐れるあまり、そして自己責任を回避しようとするあまり、更に他人からの評価を下げたくないあまり、目の前の問題を本質的に分析することさえできなくなっている、というのが現状のような気がします。

そして、現在コロナがその消極性を更に後押ししてるというところではないでしょうか。罹患者を悪戯に責めたり、マスク警察の行動や、有名人に対する攻撃を面白がるという風潮は、激しさを増しているのではないかな。それもすべては訳もなく怖いから。

それ故に、はっきりしているのは、無闇矢鱈に恐れないこと。失敗や間違いを気にして消極的になり過ぎないこと。むしろ、失敗や間違いを体験することの方が価値あるプロセスであることに気が付きたい。

人の目を意識するあまりに攻撃的なるのはやめたい。むしろ自らの痛みから想像力を育むことで災厄から最終的に身を守ることになるのではないかな。

まず完璧主義をやめる。

失敗と間違いを楽しむ。

自己責任を人に押し付けない。

不安を他人に向けた攻撃に転化させない。

これまで受けてきた教育の内容と常識をもう一度疑うこと。

僕たちはこの百年以上もの間に、見事なぐらい、絶えず怯えた消極的で無責任な他動的な状態を恒常的にしてきたのだと思うな。

この世には、あたり前のことだが、誰一人完璧な人間もいないし、だからといって不完全に開き直る必要もないが、堂々と失敗し間違い、それを意味あるものとして経て、自己の体験を積んでいけたなら、現在のような萎縮し、いじけた世界を乗り越えられるのではないかな。理想論かもしれないが、まずは「試行錯誤」を日々の基本に据えたいと僕は思います。

間違ってこそ人生。失敗してこそ人生。

だから、君よ、恐れることなかれ!明日は明日の風がふくからさ。


近くて遠い国から

『近くて遠い国から』

Taken by Kotaro Yoneshima
Taken by Kotaro Yoneshima

先日、二年前に大学で教えた中国の留学生の一人からメッセージを頂いた。

 

ほんの短いメッセージの中で、彼女が日本を離れ故国に帰り社会人として出発したことがわかった。

中国は遠くて近い国である。

全く違う政治体制と伝統文化。それにもかかわらず、日本に来て学び深く考え、そしてまたメッセージをくれる。

僕が長いこと放ったらかしにしていたブログ等を今整理し、統合しようとしているのも、もとを正せば、中国に帰った彼女のメッセージに力づけられたからに他ならない。

 

「今は中国です。中国で就職しました。でも、中国に帰っても時々先生のブログを見ます。

先生のブログからエネルギーがもらえます。私もがんばります。そして楽しみます」

 

嗚呼、なんと美しい言葉だろう。

エネルギーをもらうのはこちらの方だ。魯迅にとっての藤野先生のようにはなれないけれど、君が熱心にノートを取りながら講義を聞いてくれていた姿を僕は忘れません。

日本には日本の問題があり、中国には中国の問題がある。それはマスメディアでは語られない様々な要素であり、それらを無視して批判も合意も生まれるわけがない。

にもかかわらず、メディアは新聞やテレビのみならず、ネット上においても薄っぺらな国家批判ばかりがまかり通っている。

おそらく、僕らが欲しいのは一般論ではない。個人の出会いの中で育まれる個人的な共感と理解が欲しいのだと思う。国家間においては、政治的解決は確かに必要だし、それがなければ戦争を防ぐ手立てもなくなるが、それにしても、大きな解決のために小さな悲しみや喜びや生活を無視するのは、歴史の必然であっても、許しがたい行為だと思う。だが、これまでも、そしてこれからも、そんなことが世界中で多く起こり、続いていくのだろう。

だから、こんな小さなメッセージが本当に嬉しかった。

僕は君たち中国からの留学生たちから中国の映画シーンの知られざる問題点に気付かされたし、韓国からの留学生からは光州事件以降の韓国内の決して口外されない問題点や様々な国内の現状にも気付かされた。

 

先生とは、先に生まれ、教え子から学ぶ者のことだ。

その点で僕は本当に幸運に恵まれていると思う。日々僕は教えはするが、逆に彼らから学ぶことばかり。少しは成長できているかな。

ありがとう!謝謝!

もし、このブログも見ていくれていたら、僕は嬉しい。中国に帰った君も、韓国に帰った君も元気で頑張ってくれることを心から祈ってる。

僕もますますがんばるぜ!!

実は、昨日はバンドのLIVEでした!来週もLIVE☆

僕も楽しむよ、この人生を!!!!!

 

P.S.

上の写真は、中学生の教え子、米島虎太朗君提供によるパノラマ写真。

西荻窪上空の碧天。素晴らしい!!感謝☆

 

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LIVE演奏の後、客席にて☆2019年6月29日


比較演劇学とは何か

汝と我が世界を構成する
汝と我が世界を構成する

『比較演劇学とは何か』

法政大学の講義も、まだ始まったばかりのような気がしていましたが、春学期ももうすぐ終わりなんですね。早い。時がたつのは本当に早い。

そこで、よく質問される「比較演劇学とは何ですか?」に対して当ブログでも一部ご紹介したいと思います。もちろん年間を通じて、深く考察を重ねていくものなので、簡単に要約することで誤解を生じさせる可能性は無きにしもあらずですが、概要を述べることには多少の意味はあると思います。

イスラエルの神学者マルチン・ブーバーの著書に「我と汝」というものがあります。この本の中で、彼はこの世界がいつの間にか「我とソレ」という非人間的な無理解が前提となった世界になってしまっていることに気が付きます。すなわち、世界が「我々」ではなく「私と関係のないものの関係」になってしまっている。

ここで鍵となるのが「共感」です。

Sympathy(同情)→ Compassion(同調)→ Empathy(実相観入)→ Identification(共感)

一概に共感と言っても何段階かに分かれていて、最終的にはIdentificationに至りたい。つまり、他者は理解不能ではあるが、他者の中に自分自身を見出すことは可能です。その「他者の中に自己を見る」という見方。それが本来の「共感」の役割だと思うのです。Identificationの前にはEmpathyという相手にあえて入り込むというプロセスが必要となりますが、それが「物語を体験すること」=「追体験」ということになります。

ドラマ(演劇・小説)という物語の存在意義は、まさにここにあると思います。観客や読者を拒絶する物語も勿論存在し、その意味も理解できますが、基本は共感をツールとして追体験させるのがドラマの役割だと言えると思います。

「比較演劇学」では、その共感へ至る際に様々な障壁があることを自覚するため、ドラマの持つ危険な側面、すなわちプロパガンダの役割も認識します。日常的に「広告・宣伝」に晒され、自由意志のように思わされながら、実際はメディアの都合でコントロールされている事実に自覚的にならねばなりません。そのために古今東西、西洋東洋様々な素材を比較検討しながら、真の共感への道を阻害するものたちを認識します。

J.カーペンター監督:映画「They Live(ゼイリブ)」より

フランスの哲学者ミッシェル・フーコーによれば、精神病というものは時代の支配的価値観によって、様々な定義がなされ、永遠不変の精神疾患はないと結論づけています。(『狂気の歴史』)

それは狂気のみならず、あらゆる価値観に言えることではないでしょうか。我々が「当たり前」と考えている常識は、この時代の常識であって、その常識は権力の推移によっていとも簡単に翻ってしまう。そんな危うい世界に我々が暮らしていることを知らせてくれるのもまたドラマ(物語)の力であります。

様々な同じテーマを扱った作品を比較検討することによって、何が生まれ、何が失われてきたのか、深く理解できるでしょう。そこにはそれぞれの時代、そして現在の政治・経済の影響が深くのしかかってきます。時には社会学的アプローチや人類学的アプローチも必要になるでしょう。ドラマ作品はありとあらゆる時代や場所の影響を深く受けているからにほかなりません。

というわけで、いずれ、このプロセスを書物にまとめてみたいと思いますが、やはり講義するという発話の方が、まだ伝わりやすいのかもしれません。

このように、比較演劇学とは一般的な演劇評論、もしくは映画評論とはずいぶん違ったアプローチでドラマを読み解き、最終的には我々一人一人の「共感する力」を回復させたいという試みなのです。

あくまでも、ほんの表面をお伝えしたに過ぎませんが、比較演劇学の一端をご理解いただければ幸いです。

こんな講義を十数年に渡って展開させて頂いている法政大学・文学部・日本文学科には本当に感謝に耐えません。ありがとうございます。


僕たちの時間

【イーハトーブの5月の風景 2018年5月撮影】

『僕たちの時間』

気がつくと平成から令和に変わっていたって感じ。

元号が変わろうが、僕らの生活は基本的に何も変わっちゃいない。当たり前だろ。

むしろそれより、逆に元号が変わる以上に、毎日変わっているといった方が良いかもしれない。停滞や思考停止ってのは、日々の変化に気づかない周囲のイベントの変化に振り回される精神状態から生まれるような気がするね。

僕たちは政府や権威に設定された時代や時間を生きているのではありません。僕たち自身の持って生まれた時間を生きているのです。

なのに日々を暮らしていると、時々、この世界に生まれたことが奇跡だという大切な事実をつい忘れてしまうようだ。

僕たちは人生を通じて、それぞれの時間を生きているんだぜ。なのにその貴重な時間を、むやみに売り渡してはいないか?

大人ならば会社の仕事という絶対的な義務のために、学生ならば学校や教育システムという既存の大きな枠組みの中に取り込まれて、あるいはまた、友人の和を乱さないためだったり、家族のしがらみに巻き込まれていたり、様々な形で、良くも悪くも僕らは自分自身の時間を奪われているのだと自覚したい。奇跡のような日々を押しつぶす様々な要素に無自覚なのは本当に残念なことだ。

例えばこの数年、中学校や高校で運動クラブの拘束時間の問題があります。

勉強も大事、スポーツも大事、芸術も大事。

あまりにも当たり前のこと。

ところがここ二、三年、運動部が異常なほど長時間にわたる練習時間を取り、土日は試合が入るという週七日制が定着してきているようです。

クラブ活動優先のため、他のことが何もできないという状況に陥っている生徒を僕はすでに何人も見てきました。

バランスが悪すぎでしょ。

僕たちの時間は限られている。一週間に七日間、運動クラブをすることが本当に幸福なのかな。もちろんその競技が大好きで大好きでたまらないという人はいると思うし、実際国の強化選手ともなればそういうことは当然でしょう。だけど、一般の生徒たちが週七日運動クラブ漬けというのは本当に健全なことなのだろうか。これで本当に心身のバランスが保たれていると言えるのだろうか。特に学校生活において、それは有意義といえるのか。

僕たちの時間は、僕たちが選ぶべきです。

そして、彼らの時間は、彼らに選ばせてください。

その大切な時間を奪ってまで、子供たちを運動漬けにするのは常軌を逸していると僕は思う。ぜひ多くの学校にお願いしたい。運動クラブのクラブ活動をすることで加点するというシステムを見直していただきたい。運動クラブをやらないと協調性がないと批難しないでいただきたい。試合に出る限り授業を受けなくても良いというやり方は確実に間違っているので、やめていただきたい。

企業がブラック化していると言われて久しい昨今ですが、学校のクラブ活動もオリンピック前で調子に乗ってブラック化していませんか?

この極端な傾向はここ数年のことであり、かなり一時的なことだと思いますが、無自覚なままでいるわけにはいかないほど悪化している。

毎日のように様々な生徒たちと時を過ごしながら、僕たちの時間をなんとしてもとりもどさなければと思う今日この頃です。

運動もやり、勉強もやり、芸術もやり、結局はなにごともバランスではないでしょうか。

だから、僕は芝居をやり、音楽をやり、英語をやり、演劇論をやる。楽しい!これだな。他人の時間を無駄に奪うこともなければ、自分の貴重な時間を奪われることもない。みんなが豊かになれる。バランスだよ!!

僕たちの時間は、僕たちの豊かな時間にしたいものだね。


『美しいということ』

タイトル『紅』 作・米島虎太朗

先日、上野の東京都美術館にて絵画と写真の展覧会を見る。

久しぶりの上野の森。

日差しは結構暑かったけど、木陰に吹く風が涼しくて気持ちがいい。

駅から美術館まで、ゆっくり散策。いつもは近所の公園や川沿いを歩くんですが、木漏れ日の中を歩くのは最高にいい気分☆

沢山の人が歩いている。老いも若きも家族連れもカップルも或いはひとりで。そんな人々のすれ違う中、本来ならウンザリするはずが、なかなかそれも楽しい。その後、あえて人々の群れを余所目に、森を通り抜ける。

ヒンヤリした風を感じ、木々の緑の枝先の向こうに蒼空が見えた。瞳の中に太陽光線が創り出す光の輪が見えた。

ふと歩きながら、地元の駅のホームから見上げた時、薄い雲の間に逆さになった虹の弧を見たのを思い出す。上空には冷たい氷の粒があったのかもしれない。虹は普段とは逆向きに薄く七色の光を発しながら、ホームの上空に佇んでいた。その逆さの虹を見た後、今度は上野の森で、光の輪を見たわけだ。

美しさとは一瞬の奇跡なんだな。そのモーメントを逃すと決して同じ体験はできない。保存することも、見返すことも本来はできない。演劇や音楽に関わっていると、つくづくそう思う。同じことは二度繰り返せない。

しかしながら、写真や絵画というジャンルは一瞬を凍結させる芸術であります。勿論、演劇も映画も音楽も瞬間の凍結の側面もありますが、それでも「静」という要素は写真や絵画にこそ相応しい気がします。

木漏れ日の中を通り抜け、美術館の中に入り、一階の展示室の一番奥に、その作品は静かに掲げられていました。

『紅』

和傘の紅色が太陽光に照らされ輝く風情が、一瞬の揺らぎの中で切り取られていました。

学校という圧倒的な制約と圧力の中、懸命に戦っている君の見た景色は確かに「美」そのものでしたよ。

美は制度を超える。

とても大切なことを学んだ気がするんですよ。美しい瞬間に素直になれる、というのは一種の特権だということ。

そして、どんなに大人たちが、政治的に忖度しても、制度を盾に圧迫を加えても、美を見出した人間を止めることはできないのだ、ということを。

大人たちの尺度に合わない若者が次の時代を創り出すんだよ。

その意味で、この作品が新人賞を取れたことは、大人もまだまだ捨てたもんじゃないな、という証かもしれないね。

美しいということは、決して万人ウケすることではなくて、静かに対象と瞬間を共有し合う交流から生じる「結晶」のようなものなんだろうな。

上野の森で、僕はとてもリラックスして、美を楽しんだよ。

ありがとう😊y


『懐疑的であることはたいせつだよ』

我が家のそばを走ってるトトロの電車☆

信じるという言葉があります。

僕らが日常的に使うこの「信じる」という言葉は、実に多様な意味がありますね。神や真実の存在を信じたり、あなたの言うことを信じたり、新聞の記事を信じたり、ネットの噂を信じたり、SNSの投稿を信じたり、、、、、どれもが同じようですが、ちょっと違う。

信じる行為を可能にさせるのは、信仰や信頼や愛情や友情や尊敬や、様々な要素によって質のことなるものだからです。

とはいえ、僕らは常に何かを信じたいし信じるからこそ何らかの確信を持って前へ進んで行けるし、信じるからこそ様々な問題への対処が楽になる。

ですが、本当に信じることで救われてますか?信じることで大概は救われるのでしょう。信じるからこそ、何かに囚われ、がんじがらめになり、疑うことが罪悪に思え、身動きがとれなくなる、なんてことありませんか?

昔読んだ本の中で、クリシュナ・ムルティという方が「私は何も信じない」と言っておりました。確か彼の著作のタイトルにもなっていましたね。

自分の教団を持ちながら、信者たちを捨て、教団を畳んだ彼は、自ら何も信じないと言うことで、彼の後を追う信者たちに「自らの力で考えよ」と言ったのだと思う。

同じようなことがかつてドイツでもありました。

実存哲学の巨星、マルチン・ハイデガーは戦後ナチスに協力したということで、評価を著しく下げてしまった晩年が哀しい哲学者でしたが、戦争中、弟子であり愛人でもあったハンナ・アーレントをドイツからアメリカに送り出す時、こう言いました。

「思考せよ」

単純に何かを信じるのではなく、考え続けることこそ価値のあることだと伝えたわけです。

信じるという行為は、本当に難しいことですね。例えば夫婦だって信じることがなければ一緒に暮らすことなんてできやしない。信じることは、それほど僕らの日常に深く根ざした根本理念とも言えるかもしれません。

それでもなお、信じることの「怪しさ」、場合によっては「いかがわしさ」に注目せずにはいられません。

日々流されているニュースにしても、特にあからさまなフェイク・ニュースというわけではないにしても、すべて信じ込むような人はいませんよね。何か事件が起こると似たような事件が立て続けに報道されますが、それは報道する側が取捨選択もしくは忖度しているわけです。僕たちがニュースを選べるわけもなく、すでにメディアによって取捨選択と忖度が行われて、その結果として見せられているに過ぎないのです。

だとすると、一概に一連の報道を基に傾向を探ることは、報道を流す側の忖度に乗っかってしまうことになりはしませんか?

テレビは駄目だけど新聞は信じるというメディアの種類の問題ではなく、受け取る側のこちらの姿勢の問題なのです。鵜呑みにするのは受け取る側が「信じ」込む準備ができているからです。準備は教育かもしれないし、目上の人間から受け継いだ信念かもしれないし、社会的立場で培った常識かもしれません。いずれにせよ、自らを疑うことがない場合は、容易に「信じる」という行為が生まれやすいのではないかな。

それとは対称的なのが「懐疑的である」ということです。

一般に懐疑的であるというのは、どこか斜めに見た嫌らしい態度のように見られがちです。懐疑的=疑り深い、というのかな。

とはいえ、懐疑的であるというのは思考するということであり、疑うことのない思考は思考ですらないかもしれない。人間の頭の中は絶えず様々な事象が入れ替わり立ち替わり現れ、疑問(疑念)と検証(確認)を繰り返しています。

疑うことがなければ確認もないので、疑うことがなければ放置されるわけです。安易な信じるという行為の究極の危険性はここにあると言えます、

すなわち、思考をやめ、事象を「放置する」ということ。

クリシュナ・ムルティの「何も信じない」も、ハイデガーの「思考せよ」も共に、放置せず、人任せにせず、自らの精神をフルに使って、頭脳を働かせ「疑え!考えろ!」と言っているのではないかな。僕にはそう思えてならないのです。

懐疑的であるというのは、実に良いことです。

懐疑的であるからこそ、思考するのですから。

懐疑的であることにあまり良い印象を持たない日本という国の常識的なものの見方こそ、見直すべきものだろうとしばしば思うのです。

「懐疑的であること」にあたる英語の”Skepticism”は決してネガティブな意味はないと思うけどね。

何事も簡単にあるいは安易に信じすぎず、疑いましょう。