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『君たちへ贈るー未来の詩』

 

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『君たちへ贈るー未来の詩』by Kazan Ueno

 

 

未来を夢見ながら 今を生きてるんじゃない
今を生きながら 未来を創造するんだ

 

僕らは 幸せだから笑うんじゃない 
笑うから幸せなんだ

 

未来の芽は 青空の下の ふきのとう
だれも気づかない 地面の そのはしっこで
未来は生まれる

 

明日は 今日のご褒美で
昨日は 今日の準備だったんだ

 

だから

 

まだ来ぬ未来へ 僕らは続いていくんだよ

 

やらなきゃならないことって なんだろう
それだけが 僕らを生かしてくれるのさ

 

小さな地面にころがるふきのとうのように

未来が生まれるんだってことだけは 決して忘れまい

 

今日の君は

明日の君自身の 父であり母だ
ちっぽけだけど 力強い この世を創り出す

父であり母なんだ

『丁寧な日常』

JS Sitting

『丁寧な日常』

V-net教育相談事務所で現在教鞭を執る岸朱夏先生の撮られた短編映画「ななめの食卓」について書きました。

もしよかったら、お読みください。

先日、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2020に出品された短編映画を見る機会を得た。
映画のタイトルは「ななめの食卓」

ほとんどの場面が室内で行われる、まるで舞台劇を観るような濃密な空気感がそこにあった。わずか27分という短い物語の中で、静かに繰り返される対話はまさに日常のありふれた言葉だが、だからこそ、そこには誰もがどこかで見たり感じたりしたことがある誠実な肌触りがあった。

アメリカ映画にあるような暴力的な対立を煽るところもなければ、韓国映画のような激しい情緒もない、むしろそこには日本家屋の持つ静謐さそのものが発するような「柔らかな視線」があった。

2000年代以降、小劇場等でも「日常」はテーマになり、なにも起こらない日常を描く芝居が多く上演された経緯がある。勿論、それらはとても興味深い日本の様々な種類のリアルを描いてはいたが、優しさは少なかった。日常は退屈でつまらなく、だらだらと間延びし憂鬱でカッタルイもの。僕らの日常は無意味で充満し、希望はおろか深い絶望すら見失っている。そんなリアリズム演劇がかなり長いこと下北沢周辺から日本のドラマの色を変えてきた。
実際、この世界に対する胡散臭さや偽物臭に敏感な人々は、そうしたリアリズム演劇に日常の真実を見出したようだった。そして、かくいう僕もその一人だった。

しかしながら、そうしたドラマに大きく欠けていたものがあった。
それは、優しさである。日常で何も起こらないはずがない。優しさはなかなか見えにくいのである。
優しさなんてものは、結果であって、求めるものでもないというのは重々承知の上ではあるが、やはり「優しさ」は大切なのだ。優しさを忘れた批判も批評も、それはやがて厳しさを理由に暴力に堕すだろう。優しさは甘やかすことではない。優しさとは、相手をそっと見守るその視線そのもののことかもしれない。
親子、兄弟姉妹、友人同士、師弟、そうした関係性の中で、優しさは確かに育まれることは多いだろう。

この「ななめの食卓」という映画の意外性は、まさにその点にある。
妻を亡くした男とその亡き妻の母との奇妙な二人暮らしを描くこの作品では、優しさこそ生活を成立させる大きな原因となっていた。
そもそも二人は赤の他人だが、亡き妻と娘という接点のみで、生活が続いていくのだ。
夫婦という関係性が他人同士の共同生活から始まるわけだが、夫婦でもないのに、それでも継続する接点を失った家族。
その二人を結びつけるのも優しい互いを見つめる視線なのだと物語の終わりに気付かされる。亡くなった妻であり娘である女性が作り置きしていたカレーを残された義母と娘婿が食卓で初めて向き合って食べるとき、観るものは二人の関係の優しさに、魂が揺り動かされるのである。

葛藤や軋轢というものは、怒鳴り合い、憤り合うことばかりでないのだということがよく分かる。置かれた状況そのものが葛藤であり軋轢なのだから、その中で人はなんとかして優しさを見出そうとするのだろう。
かつてより、日本のドラマ作品にはこうした静かなる葛藤を描くものが多くあった。例えば昭和12年の山中貞雄監督の「人情紙風船」、小津安二郎監督の「東京物語」、黒澤明監督の「生きる」、木下恵介監督の作品群等など。

「ななめの食卓」という作品は、早稲田大学の学生たちによって創られた新しい作品にも関わらず、長い間忘れられていた過去の巨匠たちの作品の系譜に並ぶものだということがよく分かった。そして、コロナ禍で喘ぐこの時代に、人々の揚げ足を取るようなクレームや匿名や名声を利用してSNSで人々軽々しく追い込んでいく空気の中で、他者を思いやる「優しさ」をテーマにしたことは本当に貴重な作品なのだと思う。

ただただ目新しいものを創り出すことが最善とされる時代に、「今失われている大切なもの」を描くこの作品の存在は、僕にも静かに明るい未来を予感させてくれる大切な想い出になりました。監督、スタッフ、そしてキャストの皆さんに感謝!!!

ありがとう!!!

………………………………………………………………………….
映画「ななめの食卓」詳細

監督:岸朱夏
出演:高間智子、清田智彦、谷川清美、玉置祐也、山下真琴

< 解説 >
突然直面することになった「遺された家族の生活」を、戸惑いながらも次第に受け入れていく義理の親子を題材にしたのは現役大学生、岸朱夏。微妙な二人の心情を、毎日座る食卓の位置でうまく表現している。本作は早稲田大学の基幹理工学部による映像制作実習で制作されている。今年で5年目となる本プログラムは、映像学科や専門学校と異なり、映像制作の技術を学ぶことよりも、制作過程においてお互いの考え方や姿勢を学ぶことを目的としている。映像制作経験もほぼないスタッフの中で作り上げられたという事実に驚くものの、授業の担当教員に是枝裕和監督や篠崎誠監督が名前を連ねており、日本を代表する錚々たる監督陣の指導によるものだとわかると、納得もいく。本映画祭での上映がワールド・プレミアとなる。

< 物語 >
妻を亡くした男と、義母。家族でもあり、他人でもある微妙な距離感。
向かい合って座れる日は来るのだろうか?
一緒に暮らす会社員の達紀と義母の信子は、いつも決まってななめ向かいに食卓につき、会話にも態度にもぎこちなさを隠せずにいる。二人を繋いでいたはるは、交通事故で急逝していた。信子は娘を、達紀は妻を失った悲しみを抱え、互いを気遣いながらも自分たちの今後を決めあぐねていたのだが…。『ななめの食卓』

予告編|SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2020 国内コンペティション(短編部門)

君よ、恐れることなかれ!

写真:米島虎太朗君撮影

少々長い文章、許してね。ある知り合いの青年に対して書いたものです。よかったら、読んでみてください。

『君よ、恐れることなかれ』

秋の気配も感じられる今日このごろ、永い永いコロナ禍の中、僕らの中に必要以上に何者かに恐れる感情が増幅されているような気がします。

他者の評価が怖い。どう見られているのかが怖い。失敗したくない。完璧でいたい。間違いをなくしたい。常に不安なので、何事も消極的にしかできない。顔色を伺う。空気を読むというより、むしろ先回りして忖度する。冒険しない。傷つかないための努力をおしまない。見て見ぬふりをする。同調圧力というより、むしろ自ら進んで同調していく。SNS等での匿名の顔なし発言では、誰よりも威勢がいい。内容よりも見かけが大事。努力より要領が大事。プロセスより結果が大事。人を騙すより騙される方が怖い。だから、間違いたくない。失敗したくない。

こうした心理的循環(Circulation)は、現在日本のみならず世界で蔓延している類似状況のような気がしますが、特にこの国では、「不安」→「消極性」への繰り返す循環が顕著のようです。その背景に、日本特有の「隣組」的な同調圧力が今もなお根強く存在することが、昨今のコロナ禍でも明白です。

よく言われることですが、現代日本の原型は明治の開国時にあります。

江戸と現代はどうも一直線には繋がっていないようです。それは明治の開国期が、日本に対する欧米列強による植民地支配の第一回目に対応していることから明らかでしょう。欧米の価値観の流入により大幅に外面的な様子と価値観の細部が影響を受け変化したわけです。そして1945年の敗戦時に米国による更なる植民地化によってこの傾向が進みます。これが二回目の植民地化です。

この辺りから、日本人は極端に、もしくは、必要以上に「失敗を恐れる」ようになり、「他者に同調する」傾向が強まったのではないかと推測します。というのも、江戸期の日本人はもっとばらばらで、いい加減で、適当だったことが、例えば歌舞伎の歴史的な推移からも見て取れます。歌舞伎の主要な観客であった町人たちはいい加減に歌舞伎を楽しんでいたので、江戸期の歌舞伎は町人の楽しみだったわけですが、明治以降、劇場が枡席から椅子席へ変わり、プロセニアムという額縁舞台になり、まるでクラシックのコンサートのように静かに鑑賞するものに変わりました。ここでは適当もいい加減も大騒ぎも許されません。まさに他者との関係により同調的になり、忖度するものが正しい世界に様変わりしたというわけです。しーんと静まり返った劇場の原点は不思議なことにこの開国期から現在に至っているのだと思われます。すなわち、「同調圧力」(周りに合わせ失敗を許さぬ雰囲気)の始まりは欧米化に対する「過剰適応」の結果だったのではないかと推察します。現在現実の欧米の劇場はそんなことはないのね。故に過剰適応だと思う。

日本の学校教育はまさにこの「同調圧力」の路線に乗っかって行われています。

僕らの頃(昭和期)も、今もなお、教師たちは心を込めて「失敗のないよう」に指導したがります。生徒に失敗しないように指導することが正しいらしい。したがって、生徒から見れば、失敗したり間違うことは「良くないこと」なので、極力それを避けようとします。その結果、顔色をうかがうようになり、声は小さくなり、目を合わせず、言い直すことを極端に嫌がり、間違うよりも無解答を選ぶようになります。

同調圧力というのは様々な形を伴いますが、間違わないように、あらゆることを消極的に行うという姿勢もまた、ひとつの同調圧力の結果ではないでしょうか。

教師は生徒に失敗しないように指導する。生徒は失敗したり間違えたりすると叱られるので声を控え、冒険はしなくなり、常に周囲の目や評価を恐れるようになる。これは生徒のみならず教師も同じではありませんか?そして、日本社会全体がこの傾向に陥ってはいませんか?常にあらゆることが「消極的」に進んでいくこの傾向に。

ニヤニヤ笑いながら要領の良い人間が尊ばれ、要領が悪く時間のかかる人間は顧みられない社会。

これは大きく間違っている。

「失敗や間違いが許されない」ということが間違っている。

「大多数に所属していれば安心」という態度が間違っている。

いい歳をして青臭いと思われる向きもあるかもしれませんが、僕には最近の目に余るこうした間違いを許さない風潮がどうにも我慢がなりません。

間違いや失敗はない方がいいに決まっていますが、間違いや失敗がなければ僕らは何も学べません。試行錯誤以外に学ぶ手段はないのですから。

しかし、間違いや失敗を恐れる気持ちが固定化すると、試行錯誤が不可能になり、全てにおいて消極的になり、思考力も衰え、判断力は減退し、簡単に被支配層に転落します。

その意味で、まさに現代の「恐れる傾向」は新自由主義的経済帝国主義には欠かせない支配ツールになっているのでないかと僕は思っています。ここにきて明治開国以降の世界的経済支配が完成しようとしているわけですが、その中でもう一度試行錯誤する勇気を認識し獲得することは、本当に重要な意味があると考えます。

現在、新しい政権が、そのスローガンの冒頭に「自助」を掲げています。

それは、数十年ほど前から顕著になった「自己責任」の謂であります。自己責任はとても大切な考え方ではありますが、これもまたとても支配層には都合の良い言葉になっています。この言葉もまた「恐れる気持ち」を強めています。すなわち、この世のすべてが自己責任なのだから、失敗や間違いは絶対に許されない、と暗に教育しているわけです。恐れる気持ちは創り出されているのです。創造された恐れに僕らはひたすら怯えているのが現状なのではないでしょうか。

コロナもテロも自然災害も、まったく支配層に都合の良い目に見えない恐怖を僕らにもたらしています。目に見えないわけですから、ひたすら恐れて、あらゆることがに対して消極的にならざるを得ません。

2001年のテロの恐怖、2011年の地震と津波の恐怖、2020年のコロナのウィルスの恐怖、このところほぼ十年ごとに偶然のように繰り返される目に見えない恐怖によって、人々は世界中で恐れることが日常してしまっているようです。

確かに、こうした恐怖の源は世界のいたる所にあり、恐れずにはいられません。ですが、「恐れること」や「怖がる態度」だけでは決して防御の姿勢とは言えないのではないでしょうか。

むしろ、本質的恐怖と向き合うために、TRIAL & ERROR(試行錯誤)を繰り返し正しく間違い、正しく失敗し、正しく分析を重ねる方が意味があるのだと思います。

失敗や間違いを恐れるあまり、そして自己責任を回避しようとするあまり、更に他人からの評価を下げたくないあまり、目の前の問題を本質的に分析することさえできなくなっている、というのが現状のような気がします。

そして、現在コロナがその消極性を更に後押ししてるというところではないでしょうか。罹患者を悪戯に責めたり、マスク警察の行動や、有名人に対する攻撃を面白がるという風潮は、激しさを増しているのではないかな。それもすべては訳もなく怖いから。

それ故に、はっきりしているのは、無闇矢鱈に恐れないこと。失敗や間違いを気にして消極的になり過ぎないこと。むしろ、失敗や間違いを体験することの方が価値あるプロセスであることに気が付きたい。

人の目を意識するあまりに攻撃的なるのはやめたい。むしろ自らの痛みから想像力を育むことで災厄から最終的に身を守ることになるのではないかな。

まず完璧主義をやめる。

失敗と間違いを楽しむ。

自己責任を人に押し付けない。

不安を他人に向けた攻撃に転化させない。

これまで受けてきた教育の内容と常識をもう一度疑うこと。

僕たちはこの百年以上もの間に、見事なぐらい、絶えず怯えた消極的で無責任な他動的な状態を恒常的にしてきたのだと思うな。

この世には、あたり前のことだが、誰一人完璧な人間もいないし、だからといって不完全に開き直る必要もないが、堂々と失敗し間違い、それを意味あるものとして経て、自己の体験を積んでいけたなら、現在のような萎縮し、いじけた世界を乗り越えられるのではないかな。理想論かもしれないが、まずは「試行錯誤」を日々の基本に据えたいと僕は思います。

間違ってこそ人生。失敗してこそ人生。

だから、君よ、恐れることなかれ!明日は明日の風がふくからさ。

映画『メランコリック』について ー匂いのする風景ー

映画『メランコリック』について

ー匂いのする風景ー

俳優で友人の矢田政伸氏からお知らせを受けて見せていただいたこの映画、今巷でも大騒ぎになるほど話題になっておりますね。

矢田さんは映画の中で、強面のヤクザを演じておりますが、ユーモラスな中に凄みがあって良いキャラであります。

この映画、制作過程がとても大変だったようで、クラウドファンディングやなんやかやで、それこそ奇跡的な上映だったようです。しかし、それも内容の良さからくるものでしょう。東京国際映画祭で監督賞を受賞だとか、そんな受賞歴を遥かに超えて、近年稀に見る低予算でこれだけ面白い作品が撮れたという事実こそ一つの奇跡であり快挙でしょう。

30歳でニートの主人公が経験する奇妙な体験が、彼を少しだけ成長させるという正統的ビルディングスロマンにもかかわらず、観ている最中はそんなことを微塵も予測させないストーリー展開の妙がそこにありました。

銭湯で殺人を犯し、死体を処理するというそのことだけでも、決してハッピーエンドは望めない状況下で、最終的にあれほど「ほのぼの」する不思議。この映画しみじみとほのぼのするんですね。なんだろう。生きててよかった感が溢れているんだな。

どんでん返しも確かにありますが、それ以上にあれだけの多幸感を醸し出す演出も俳優たちの演技も素晴らしかった。

映画を観ながら、僕は不思議な既視感に囚われていました。

それは、かつて七十年代や八十年代初頭に池袋や板橋や高田馬場や飯田橋辺りの名画座で散々見たあの日活ニューアクションの匂いがこの映画にはあったんです。それは映像だとかストーリーテリングだとか背景の造形であるとか、そういった視覚的なものだけでなく、匂いそのものが日活ニューアクションを彷彿とさせるんですね。原田芳雄さんや松田優作さんや佐藤蛾次郎さんやあの頃の画面から漂ったあの匂いが、この映画にはあった。

観終わった頃、こんなところであの頃を匂いをもう一度体験できるんて思いもよらなかったので、それこそが一番大きな「どんでん返し」でした。

たぶんその匂いとは、ハリウッド映画に単純に追随するわけでもなく、お洒落な雰囲気を求めるわけでもなく、美学的な映像美を探求するでもなく、ひたすら生活を描くその視線と制作態度から生まれるものでしょう。

それは何度も出てくる主人公の家の夕食の風景や銭湯の湯気、ボイラー室、銭湯の番台のやり取り、コーヒー牛乳、、、、、嗚呼これら全てに匂いがあるんだな。

デオドラントでステキ感満載の映画がはびこる昨今、こんな唐揚げの食卓の匂いのする映画は本当に貴重なんです。

この映画は物語の荒唐無稽さを、映画が醸し出す「生活の匂い」のおかげで信じられるものにしている。リアルな荒唐無稽がそこにはある。

映画は二次元で画面の中の世界に過ぎないが、確実に匂いを放っているんだと思います。それをすくい取ることのできた貴重な映画がこれです。

まだ上映中です。

ぜひ、この幸せの匂いのする風景を味わってみてください。きっと幸せになれますよ。保証します。

映画『メランコリック』予告編

映画『よこがお』に関して ープロパガンダから遠く離れてー

映画『よこがお』に関して

ープロパガンダから遠く離れてー

先日観た映画数本を連続してまとめておきたいと思います。

まずは、映画「よこがお」から。

この映画は、演技指導をしている友人のシーラさん(白峰優梨子さん)からのご紹介で観ることになったのですが、これが素晴らしいサスペンス・ミステリーでした。

製作にフランスが深く関わることで生じたのかもしれませんが、既存の日本映画にはない現代の日本人の生活を観察する視点が随所に見られ、惹きつけられました。

物語は介護職に従事する中年女性が、自分の甥の起こした事件のせいで、本人が無実どころか全く関係がないにもかかわらず、周囲から徐々に真綿で首を締め付けられるように、加害者のような扱いを受けていく、というまさに現実的不条理を描くものでした。

ただし、この物語の興味深い点は、過去と現在が同時進行しており、その構成に気がつかなければなかなか解りづらいところかもしれませんが、「彼女は如何に現実に対し復讐したか」が語られていたのでした。

監督がインタビューで語っておられましたが、最近の劇場商業映画作品の多くに政府広報と大衆に対する価値観の宣伝と政治的教育及び政策に対する啓蒙を狙ったプロパガンダの要素が強まっています。

それに対し、確かにこの作品はプロパガンダから遠く離れた作品です。なぜなら、主人公を破滅させるマスメディアの扱い方も、憎々しくはあるけれど、「だからマスコミは信じられない」的な紋切り型の単純なメディア批判は微塵もなく、ひたすら不条理な状況に陥った女性に寄り添い彼女の視点から世界を見ようとしているのですから。

こうした登場人物の視点から世界を見る方法こそが演劇やドラマ、映画に課せられた機能であり、物語を視覚的、聴覚的に追体験する意味なのだと思うのです。

信じていたものに裏切られたり、ほんのちょっとした誤解や、気を許した故の油断、一瞬の選択ミス、こういった些末だが未来の方向を決めていく瞬間を様々な角度からこの作品は僕らに見せてくれる。その意味では、人間観察から始まって、社会学的な視点まで至り、最後には破滅の意味さえ疑わしくなる、生のふてぶてしさまで感じさせる見事なストーリーテリングでした。

「よこがお」とは、人が人を見るとき、その反面しか見ていないと言う意味なのでしょうね。その意味では、画面を通じて反対側にあるその「よこがお」を見せてもらえるのは、現実ではなかなか無理ですが、それこそ映画や演劇、ドラマの力なのだと思います。

主人公があれほどまでに社会的に追い込まれて行く様は、悪く言えばもっとヨーロッパ的な薄ぼんやりしたイメージ重視の映像を予測していた僕には衝撃的なほど具体的であり、この映画が人間の不条理を観念的に机上の論理として捉えているのではなく不条理こそリアル(現実)であるという実感からきているのだな、とあらためて思いました。

複雑な構成は、この心理ミステリーには不可欠な要素だったんですね。丹念に物語を追うことで、主人公の彼女の心理に少しだけ追いつけるのでしょう。

善意の主人公がル・サンチマン(恨み)を抱え復讐に転じるあたりの凄みも演技と演出の良さを感じました。演技で先を予測するのは勿論御法度ですが、登場人物として今を最大限に生きている俳優たちの気配の凄みと生き方に強く惹き込まれた稀有な作品だと僕は思う。

こんな作品を日本の映画製作者たちも投資家もどんどん生み出してくれたら、きっと世界は変わってくるのではないかな。原作に頼るのでもなく、先行作品に寄り掛かるでもなく、今やるべきこと、今語るべきことを、エンターテインメントとして語ることの大切さをこの作品で僕は確信しました。

多くの方々にこれからもぜひご覧いただきたい一本です。

映画『よこがお』予告編

映画『新聞記者』を観る

映画『新聞記者』2019年6月公開

映画『新聞記者』を観る

 

先日、やっと観ることができたこの映画、近年稀な傑作でした。

今週で打ち切られるとか。満員御礼の劇場も出ているようですが、人が入らないということで打ち切りなのでしょうか?いずれにせよ、近頃ではめったに観ることのできない力強い作品でした。

あちこちですでに語られているように、ストーリーは現政権下における様々な政治スキャンダルとその本質に迫っています。勿論、相変わらず、本質に迫ろうとすると途端にネット上には「トンデモ」な荒唐無稽な憶測の連続で呆れるなどという批判が必ず登場しますが、なかなかどうして、現実に起こった事件や政治的案件に対する素晴らしく説得力のある解釈だと思います。

確かにフィクション(作り事)ですから、真実ではないと言われればその通りです。ですが、現在進行形の出来事を安易に解決させず迫るその制作態度は称賛に値すると思います。米映画の「ペンタゴン・ペーパーズ」等と比較される向きもありますが、それらはすでに一定の結果が出ている出来事の顛末を扱っているのだから、この作品と比べることはそもそもできません。この作品の価値は、誰もがうすうす疑っていても、あえて口に出せずにいる現在進行形の「王様の耳はロバの耳」を扱っているところにあるのだから。

しかしながら、ジャーナリストやメディアは事件や出来事を取材して、明確にすべきであって、映画などというフィクション(作り事)のエンターテインメントの媒体に安易に寄るのは、自殺行為だなどと評する人も出てくる始末。
たとえば、映画のような媒体によって現実の出来事を想像させ、解釈させ、判断させることを、現在の「民主主義」すなわちチョムスキー言うところの「観客民主主義」はプロパガンダとしては大いに利用はするが、批判や批評の材料としては潰す傾向がある。これは、この国でも勿論、多くの国で共通しています。
だからこそ、不明確で分かりにくい現在の出来事だからこそ思考の材料を映画は提供すべきなのだと思う。昨年の「万引き家族」もそうした作品のひとつでした。娯楽で結構。娯楽作品を観て、いや娯楽作品だからこそ、その映画の中で語られている事柄の本質の重さと可能性を感じることができればいい。もしもできないとしたら、よほど呑気に今を過ごしているのだろうな、と僕は思う。

なしくずし的に悪化しているこの国の政治と経済状況は、本当の問題に触れることができないように進行している。
目を覚ますには、こんな映画をあえて観てみる必要があるのではないかな。
もうすぐ終わってしまうのかもしれないが、ぜひ多くの人に観てもらいたい。そして、ぜひDVD化やBlu-Ray化を希望します。

主役の女性記者を演じるシム・ウンギョンさん。彼女の演技は「怪しい彼女」「サニー」はもとより「ソウル・ステーション・パンデミック」の声優としての仕事、そして「新感染」のゾンビ役と、これまで数多の作品を見せていただいていますが、今回はそれらの作品からは想像もできないほどの静かで激しい内省的な演技に、この俳優以外にはこの役はできなかっただろうと改めて思いしらされました。
そして、もうひとりの主役である内閣情報調査室の若手を演じる松坂桃李さんも、いわゆるイケメン枠を超えた深く葛藤を抱えた演技を見せてくれました。参加された俳優一人一人の意識的な作品への思いが、この作品を特別のモノにしていると感じました。

若い監督と老練なプロデューサー。十分に錬られた脚本と演出、そして静かに燃える演技がこの映画を稀に見る傑作に仕立て上げています。
この作品をこの時期に観ることができて僕は嬉しかった。
ありがとう!!

P.S.
映画の中でも流れていた貴重な対談の動画もアップしておきます。御覧ください。
パヨクだとかネトウヨだとか、そんなことはどうでもいい。問題の本質を見極めたいと思います。

 

西荻窪 登亭 あれから43年

『西荻窪 登亭 あれから43年』

旧ブログでも、もう十年以上前に書いたことのある、かつて西荻窪にあった洋食屋「登亭」について書きます。

ブログを一新したこともあり、このお店のことはまず語っておきたいと思います。

西荻窪・洋食屋「登亭」2006年12月16日閉店

西荻窪・洋食屋「登亭」2006年12月16日閉店

もう閉店して、かれこれ十三年も経ちますから、だいぶ昔の話になります。西荻窪に40年間あって腹をすかした若者たちの胃袋を支えてくれたのが、この「登亭」でした。

僕はこの店に十八歳から二年間お世話になりました。一週間に六日通いたいのだけれど、何しろお金のない貧乏浪人生の僕は、アパートの先輩に連れられて、一日おきに通っていました。それでもまったくお金がなくなると二三日絶食なんてこともありましたが。

ともかくも、この店ほど、腹をすかせた若かった僕をなんとか生き抜かせてくれた店は他にありません。

そんないつもお腹をすかせひもじい思いをしていた時、夢にまで見たのが、登亭の「トン定」こと「トンカツ定食」でした。銀座のお店で修行したオヤジさん手作りの独特のデミソースのかかったトンカツはほんとに美味かった。差し出される味噌汁には必ず親指が突っ込まれていたのも懐かしい。

ネット上の記事の多くが、ミックスフライに言及されておりますが、僕にとっての登亭の原点はトン定かチキン南蛮でしたね。いつも貧乏学生の列に並んで、順番に店のカウンターで食べてたな。

登亭のオヤジさん「のぼるさん」

登亭のオヤジさん「のぼるさん」

オヤジさんはノボルさんと仰る方で、大の巨人ファン。僕が通っていた頃はラジオで巨人の試合の実況がいつも流れていました。

「あんたナニふぁん?」とオヤジさん。

「え?えと、えと、ジャイアン、ト、馬場???」

「この野郎、帰れ!ここはジャイアンツ以外は出入り禁止だ!あ!馬場って元ジャンアンツか?許してやるよ」

そして、オヤジさんはチキン南蛮を一切れおまけしてくれました。

登亭の店内カウンター席

登亭の店内カウンター席

僕が上京してはじめて西荻窪に移り住んだのも偶然でしたが、アパートの先輩に連れられて登亭に行ったときの衝撃は今も忘れられません。

脂ぎったL字のカウンター席。営業中は基本開けっ放しのガラス戸。外には見るからにお金のなさそうな髪の長い学生が列を作って待っている。みんな無言。

どんなに苦しくても、どんなに寂しくても、登亭のカウンターに座るとホッとして体が暖かくなりました。オヤジさんがガハガハ笑いながら素手でカツを揚げていました。みんな黙々と飯を食う。店の中には油煙や蒸気が溢れ、家族から一人離れ、その日暮らすお金に困りながら大学をめざしていた僕は大いに慰められました。

思い出すだけで、登亭の日々は、まさに貧しかったけれど青春の日々でした。

1976年はそんな時代でした。

擦り切れたGパンと下駄。銭湯と登亭。西荻ロフトで森田童子を聴き、西荻セントラルで映画を見る。部屋の中でギターを抱きしめて勉強していたあの頃。

シャーウッド・アンダーソンを読み、ワインズバーグの青年は自分だな、なんて思いながら、長距離走者の孤独を読んで、この怒りは俺と同じだ、なんて思いながら、一日一日を必死で生きていたような気がします。隣の家からカレーライスの美味しそうな香りが窓辺にしてきたとき、僕は田舎の家族のことを思い出しながら、登亭の店先に佇んでいたのを覚えています。

思春期を過ぎて、青春期にさしかかり、僕は「孤独のレッスン」をしていたのだと思います。

芝居と出会う前、僕を支えてくれたのは確かに「登亭」でした。

結婚した頃、妻を連れて、登亭を訪ねたことがります。もう忘れてるかな、と思いましたが、オヤジさんはにっこり笑って、覚えていてくれました。

もう遠く過ぎ去った日々ですが、あの頃の貧しさやひもじさがあったから、今があると思えます。今の時代の邪悪な貧しさとは質が大きく異なりますが、僕にとってあれは必要な経験でした。

ノボルさん。

今もお元気でいらっしゃいますか?

僕は少しは成長できたでしょうか?

あなたのトンカツのおかげでここまで生きてこられました。

ありがとうございました。

登亭のトン定を愛した元長髪のGパン野郎より

 

下の動画はkameal hiroshiという方の「登亭」のYouTube動画です。感謝!!

https://www.youtube.com/watch?v=b-sKl7Qt-vY

 

近くて遠い国から

『近くて遠い国から』

Taken by Kotaro Yoneshima
Taken by Kotaro Yoneshima

先日、二年前に大学で教えた中国の留学生の一人からメッセージを頂いた。

 

ほんの短いメッセージの中で、彼女が日本を離れ故国に帰り社会人として出発したことがわかった。

中国は遠くて近い国である。

全く違う政治体制と伝統文化。それにもかかわらず、日本に来て学び深く考え、そしてまたメッセージをくれる。

僕が長いこと放ったらかしにしていたブログ等を今整理し、統合しようとしているのも、もとを正せば、中国に帰った彼女のメッセージに力づけられたからに他ならない。

 

「今は中国です。中国で就職しました。でも、中国に帰っても時々先生のブログを見ます。

先生のブログからエネルギーがもらえます。私もがんばります。そして楽しみます」

 

嗚呼、なんと美しい言葉だろう。

エネルギーをもらうのはこちらの方だ。魯迅にとっての藤野先生のようにはなれないけれど、君が熱心にノートを取りながら講義を聞いてくれていた姿を僕は忘れません。

日本には日本の問題があり、中国には中国の問題がある。それはマスメディアでは語られない様々な要素であり、それらを無視して批判も合意も生まれるわけがない。

にもかかわらず、メディアは新聞やテレビのみならず、ネット上においても薄っぺらな国家批判ばかりがまかり通っている。

おそらく、僕らが欲しいのは一般論ではない。個人の出会いの中で育まれる個人的な共感と理解が欲しいのだと思う。国家間においては、政治的解決は確かに必要だし、それがなければ戦争を防ぐ手立てもなくなるが、それにしても、大きな解決のために小さな悲しみや喜びや生活を無視するのは、歴史の必然であっても、許しがたい行為だと思う。だが、これまでも、そしてこれからも、そんなことが世界中で多く起こり、続いていくのだろう。

だから、こんな小さなメッセージが本当に嬉しかった。

僕は君たち中国からの留学生たちから中国の映画シーンの知られざる問題点に気付かされたし、韓国からの留学生からは光州事件以降の韓国内の決して口外されない問題点や様々な国内の現状にも気付かされた。

 

先生とは、先に生まれ、教え子から学ぶ者のことだ。

その点で僕は本当に幸運に恵まれていると思う。日々僕は教えはするが、逆に彼らから学ぶことばかり。少しは成長できているかな。

ありがとう!謝謝!

もし、このブログも見ていくれていたら、僕は嬉しい。中国に帰った君も、韓国に帰った君も元気で頑張ってくれることを心から祈ってる。

僕もますますがんばるぜ!!

実は、昨日はバンドのLIVEでした!来週もLIVE☆

僕も楽しむよ、この人生を!!!!!

 

P.S.

上の写真は、中学生の教え子、米島虎太朗君提供によるパノラマ写真。

西荻窪上空の碧天。素晴らしい!!感謝☆

 

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LIVE演奏の後、客席にて☆2019年6月29日

比較演劇学とは何か

汝と我が世界を構成する
汝と我が世界を構成する

『比較演劇学とは何か』

法政大学の講義も、まだ始まったばかりのような気がしていましたが、春学期ももうすぐ終わりなんですね。早い。時がたつのは本当に早い。

そこで、よく質問される「比較演劇学とは何ですか?」に対して当ブログでも一部ご紹介したいと思います。もちろん年間を通じて、深く考察を重ねていくものなので、簡単に要約することで誤解を生じさせる可能性は無きにしもあらずですが、概要を述べることには多少の意味はあると思います。

イスラエルの神学者マルチン・ブーバーの著書に「我と汝」というものがあります。この本の中で、彼はこの世界がいつの間にか「我とソレ」という非人間的な無理解が前提となった世界になってしまっていることに気が付きます。すなわち、世界が「我々」ではなく「私と関係のないものの関係」になってしまっている。

ここで鍵となるのが「共感」です。

Sympathy(同情)→ Compassion(同調)→ Empathy(実相観入)→ Identification(共感)

一概に共感と言っても何段階かに分かれていて、最終的にはIdentificationに至りたい。つまり、他者は理解不能ではあるが、他者の中に自分自身を見出すことは可能です。その「他者の中に自己を見る」という見方。それが本来の「共感」の役割だと思うのです。Identificationの前にはEmpathyという相手にあえて入り込むというプロセスが必要となりますが、それが「物語を体験すること」=「追体験」ということになります。

ドラマ(演劇・小説)という物語の存在意義は、まさにここにあると思います。観客や読者を拒絶する物語も勿論存在し、その意味も理解できますが、基本は共感をツールとして追体験させるのがドラマの役割だと言えると思います。

「比較演劇学」では、その共感へ至る際に様々な障壁があることを自覚するため、ドラマの持つ危険な側面、すなわちプロパガンダの役割も認識します。日常的に「広告・宣伝」に晒され、自由意志のように思わされながら、実際はメディアの都合でコントロールされている事実に自覚的にならねばなりません。そのために古今東西、西洋東洋様々な素材を比較検討しながら、真の共感への道を阻害するものたちを認識します。

J.カーペンター監督:映画「They Live(ゼイリブ)」より

フランスの哲学者ミッシェル・フーコーによれば、精神病というものは時代の支配的価値観によって、様々な定義がなされ、永遠不変の精神疾患はないと結論づけています。(『狂気の歴史』)

それは狂気のみならず、あらゆる価値観に言えることではないでしょうか。我々が「当たり前」と考えている常識は、この時代の常識であって、その常識は権力の推移によっていとも簡単に翻ってしまう。そんな危うい世界に我々が暮らしていることを知らせてくれるのもまたドラマ(物語)の力であります。

様々な同じテーマを扱った作品を比較検討することによって、何が生まれ、何が失われてきたのか、深く理解できるでしょう。そこにはそれぞれの時代、そして現在の政治・経済の影響が深くのしかかってきます。時には社会学的アプローチや人類学的アプローチも必要になるでしょう。ドラマ作品はありとあらゆる時代や場所の影響を深く受けているからにほかなりません。

というわけで、いずれ、このプロセスを書物にまとめてみたいと思いますが、やはり講義するという発話の方が、まだ伝わりやすいのかもしれません。

このように、比較演劇学とは一般的な演劇評論、もしくは映画評論とはずいぶん違ったアプローチでドラマを読み解き、最終的には我々一人一人の「共感する力」を回復させたいという試みなのです。

あくまでも、ほんの表面をお伝えしたに過ぎませんが、比較演劇学の一端をご理解いただければ幸いです。

こんな講義を十数年に渡って展開させて頂いている法政大学・文学部・日本文学科には本当に感謝に耐えません。ありがとうございます。

僕たちの時間

【イーハトーブの5月の風景 2018年5月撮影】

『僕たちの時間』

気がつくと平成から令和に変わっていたって感じ。

元号が変わろうが、僕らの生活は基本的に何も変わっちゃいない。当たり前だろ。

むしろそれより、逆に元号が変わる以上に、毎日変わっているといった方が良いかもしれない。停滞や思考停止ってのは、日々の変化に気づかない周囲のイベントの変化に振り回される精神状態から生まれるような気がするね。

僕たちは政府や権威に設定された時代や時間を生きているのではありません。僕たち自身の持って生まれた時間を生きているのです。

なのに日々を暮らしていると、時々、この世界に生まれたことが奇跡だという大切な事実をつい忘れてしまうようだ。

僕たちは人生を通じて、それぞれの時間を生きているんだぜ。なのにその貴重な時間を、むやみに売り渡してはいないか?

大人ならば会社の仕事という絶対的な義務のために、学生ならば学校や教育システムという既存の大きな枠組みの中に取り込まれて、あるいはまた、友人の和を乱さないためだったり、家族のしがらみに巻き込まれていたり、様々な形で、良くも悪くも僕らは自分自身の時間を奪われているのだと自覚したい。奇跡のような日々を押しつぶす様々な要素に無自覚なのは本当に残念なことだ。

例えばこの数年、中学校や高校で運動クラブの拘束時間の問題があります。

勉強も大事、スポーツも大事、芸術も大事。

あまりにも当たり前のこと。

ところがここ二、三年、運動部が異常なほど長時間にわたる練習時間を取り、土日は試合が入るという週七日制が定着してきているようです。

クラブ活動優先のため、他のことが何もできないという状況に陥っている生徒を僕はすでに何人も見てきました。

バランスが悪すぎでしょ。

僕たちの時間は限られている。一週間に七日間、運動クラブをすることが本当に幸福なのかな。もちろんその競技が大好きで大好きでたまらないという人はいると思うし、実際国の強化選手ともなればそういうことは当然でしょう。だけど、一般の生徒たちが週七日運動クラブ漬けというのは本当に健全なことなのだろうか。これで本当に心身のバランスが保たれていると言えるのだろうか。特に学校生活において、それは有意義といえるのか。

僕たちの時間は、僕たちが選ぶべきです。

そして、彼らの時間は、彼らに選ばせてください。

その大切な時間を奪ってまで、子供たちを運動漬けにするのは常軌を逸していると僕は思う。ぜひ多くの学校にお願いしたい。運動クラブのクラブ活動をすることで加点するというシステムを見直していただきたい。運動クラブをやらないと協調性がないと批難しないでいただきたい。試合に出る限り授業を受けなくても良いというやり方は確実に間違っているので、やめていただきたい。

企業がブラック化していると言われて久しい昨今ですが、学校のクラブ活動もオリンピック前で調子に乗ってブラック化していませんか?

この極端な傾向はここ数年のことであり、かなり一時的なことだと思いますが、無自覚なままでいるわけにはいかないほど悪化している。

毎日のように様々な生徒たちと時を過ごしながら、僕たちの時間をなんとしてもとりもどさなければと思う今日この頃です。

運動もやり、勉強もやり、芸術もやり、結局はなにごともバランスではないでしょうか。

だから、僕は芝居をやり、音楽をやり、英語をやり、演劇論をやる。楽しい!これだな。他人の時間を無駄に奪うこともなければ、自分の貴重な時間を奪われることもない。みんなが豊かになれる。バランスだよ!!

僕たちの時間は、僕たちの豊かな時間にしたいものだね。